ニュース表1@2022年05月ふたば保管庫 [戻る]

「知識型→思考型の学校教育」は失敗すると思うName名無し22/05/01(日)20:34:33 IP:111.108.*(enabler.ne.jp)No.4073001+ 15日07:12頃消えます 長男がまもなく6歳になり、来年から小学生になるタイミングで自宅に教育系のDMが届く機会が増えた。パラパラとめくっていると、「小学校では知識詰め込み型をやめ、思考重視型の教育へ変わった」という文言が目に入った。DMには「知力を高める新しい学び」「これぞ新世代の学習」との美辞麗句が踊り並び、「ぜひ弊社の教育プログラムを!」と続いた。知らない間に昨今の小学校では、プレゼンや英会話の機会を増やすカリキュラムになっていたようだ。

結論から言えば、筆者はこの「進化」に懐疑的である。筆者は学校教育の専門家ではなく、あくまで独断と偏見による意見にすぎず、不正確な情報が含まれるリスクがあることを最初に付記しておく。本稿ではその根拠を展開することに挑戦したい。

◆知識を犠牲に思考を増やす?

最初の懸念は、思考の場を増やすと知識の量が犠牲になるということである。問題はその犠牲の程度がどのくらいになるのか?である(程度のほどは確認できなかった)。
No.4073002+自分が知る限り、この転換が起きたことで、学習時間の延長はない。そうなると、新しい施策の導入は、従来の施策とのトレードオフになることを意味する。つまり、小学校の段階で従来の学習法から転換するということは、発信する分量を増やす代わりに、知識量が犠牲になるわけだ。

トレードオフにおける意思決定は、新たな価値(思考訓練)が旧来のメリット(知識量)を上回る必要がある。確かに子供にとって思考の場を増やすメリットがある。自分の意見を積極的に出す経験は子供の時期に積んでおくことは良いことだ。しかし、知識のインプットを犠牲にするほどのメリットになるのだろうか?思考の訓練で高い学習効果を得るには、相当量の訓練と事前の知識インプットが必須になる。

◆インプットなきアウトプットは不可能

大前提として知識がなければ、思考は不可能である。知らないことは発信したり考えたりできない。これはどんな分野でもまったく同じだ。

https://agora-web.jp/archives/2056252-2.html
No.4073060+こういう詰め込み教育大好き、ロボット大量生産教育大好きのせいで、個性や思考を殺すのではないか?
No.4073061そうだねx3バカがあくまでも個性と言い張るならそれでも良いが、
ネットと言う公共の場であまりに無教養を晒すのはどうかと思うがな。

そくすとか、こしゅうとか、あとあまりに読解力が無さ過ぎるとかさw

当人が恥ずかしくなくとも、見ているこっちが何とも言えない気分になるw
No.4073095+知識量や記憶力を鍛える方針の方が教育者を多く育成出来るって利点はある
応用力や思考力って個性の延長だからマニュアル化が難しいし
結果として何の能力も伸ばせずに卒業する生徒を生み出してしまいそうだ
No.4073096+ゆとり教育も部分部分では合理的だったのにね
例えば「円周率=3」
3.14で計算して時間とられるぐらいなら3で計算なら答えも間違えにくいし計算もしやすい
(仕事で設計とかやってる人も手元に電卓がないような場合では手計算で「3」で簡易的にイメージしたりするんだぜ?)
重要なのは知識として最低限必要なことまで省略しちゃったことなんだよな
No.4073104そうだねx2知識は塾が担当してくれるだろうし
学校は思考担当でもいいんじゃないの
No.4073106そうだねx3>知識は塾が担当してくれるだろうし
>学校は思考担当でもいいんじゃないの
それは塾と学校をセットにしなければならないことにならない?
義務教育でやる以上は学校で必要最低限の知識と思考を教えなきゃまずいんだよ
塾はあくまでも任意で行くものだから
No.4073115そうだねx1なんか失敗したゆとり教育を彷彿とさせるな…
あれは「思考」の部分を学校や教師に委ねてしまった結果だけど
何れにせよ書かれているように思考は知識・経験から来るものだからそれを疎かにしたらまともな思考は出来なくなるだろう