軍4@2021年11月ふたば保管庫 [戻る]


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Name名無し21/10/11(月)12:14:01 IP:49.106.*(spmode.ne.jp)No.42006そうだねx1
18:13頃消えます 10月11日・・・本日はスポーツの日!このスレは古いので、もうすぐ消えます。
No.42007そうだねx2
540458 B
オリンピックでも自衛官の選手がだいぶ活躍しましたね〜
というわけでスポーツと軍事・軍人スレ
No.42120+兵隊さんは日常生活自体ハードトレーニングのようなものな気が
しますが…
それでも趣味やレクリエーションなら身体を動かしたくなるもの
なんでしょうか?
No.42121そうだねx2訓練で無理やり動かされるのと遊興で体を動かすのとではやっぱり全然違うでしょう(整備職ともなるとそもそも運動すら・・・)
No.42124+従軍記でもスポーツやったって話は乏しいな
有名なのは人付き合い悪くて一人で走り回ってたルーデルみたいなのくらいか
それとてパイロットは給養が良いからやれるようなもんで
敗走やサバイバル生活に追われるケースだと出てくる余地がない

大戦終盤の後方基地で暇を持て余した米兵では
レクリエーションとして草野球やってるフィルムとかあるけども
No.42174そうだねx1
175106 B
拳闘で世界タイトル賭けた一戦まで行ったシュメリングさんなんかは
発足間もない降下猟兵で名物男になったそうだけど、軍隊生活を統制する集団生活のアクセントとしてのスポーツの効果のほどは実際どうなんでしょうね…
No.42183そうだねx3
79463 B
拳闘やレスリングは狭いところで用具も大して要らずにできるおかげか
欧米海軍において艦上で汗流したり艦対抗試合やるスポーツとして盛んだったような
No.42192そうだねx8
1631521 B
IJNの軍医少佐だった和田明二さんという方は、山本五十六・古賀峯一の2代に渡って
連合艦隊司令部付で勤務されたそうなんですが、トラック泊地に碇泊中の旗艦「大和」艦上で、山本長官が楽しみにしていた一つは、夕食前の別課時、中甲板で行われる下士官兵の相撲見物であったそうですwまたその山本長官の戦死後、新長官古賀大将の下旗艦「武蔵」で勤務していた際には「新司令部の副官山本(※肇)中佐は、大のゴルフマニアで、作戦室や副官室にいないときは、武蔵の飛行機格納庫を探すとよかった。そこに網を張って、打ちっぱなしの練習をしていた」「6艦隊の長官の小松(※輝久)中将もゴルフマニアと聞いていたが、トラック島の陸上ではゴルフはできないので、テニスで汗を流しておられた」…なんて光景が見られたそうで
No.42193そうだねx8
769067 B
そんなゴルフ好きの山本副官も、所謂「海軍乙事件」で古賀長官と共に遭難、偶々転勤
直前の雑事により一緒に搭乗できなかったおかげで、反って難を逃れた和田氏、やはり出張中の為に無事だった参謀副長の小林謙吾少将らと合流したそうなんですが、かつてアメリカ大使館付武官を務めて米国事情にも明るかったという小林氏は「この戦争はもう駄目だね。アメリカ人は命をかけた戦争には弱いが、体力を競うスポーツには強い。この戦争はアメリカにとってはもう戦争でなくスポーツになってきた。ちょうど、支那事変がわが海軍にとってはスポーツであったように」…と歎いておられたそうです短い間に2代続けて連合艦隊長官を失い、しかも戦局自体も日増しに日本に不利になっていく当時の雰囲気の中、意気消沈する司令部生き残りの方々の様子が伝わってくるような発言ではありますですねえ
No.42221そうだねx2
518009 B
日本だとちょっと前まで知名度が無かった『軍人大運動会』障害物リレーの部>陸軍版
https://youtu.be/WU5E1nVttMU海軍版と空軍版も在ります
No.42240+ゴルフとかは個人競技だけれど、軍人さんはやっぱり団体競技の方が得意なのかな(偏見
No.42243+「滝ヶ原自衛隊」
No.42245+チャーチルの半生記は騎兵仕事とワンセットになったようなポロ競技の描写も多いな
「彼らはおそるべき強豪であった が私はそれに勝ったのである」という欧米人好みの修辞とともに
腕が上がらなくなるほどの怪我したり文筆業と政治志向に目覚めるまでよく出てくる
No.42260そうだねx5
70642 B
エゲレスの戦闘機パイロットで、航空機事故で両足を失いながらも義足を付けて現役に復帰、
「スピットファイア」を駆って活躍したことで有名な、ダグラス・バーダー=サンという方がいらっしゃるんですが、若い頃から優秀なスポーツマンでもあって、空軍大学ではラグビー部のキャプテンにして拳闘チャンピオン、クリケットやホッケーも得意という万能選手であったんですとかそしてスポーツ好きは両足義足の身となってからも変らなかったようで、WW2中、氏の編隊の4番機だったジェームズ・エドガー・ジョンソン=サンによると、「私たちは空中でよりよく指揮官(※バーダー氏)に仕えられるように、彼とともに飛び、ともに遊び(略)泳ぎ、ゴルフをし、彼の気質をすべて吞み込むように努めた」「私たちが近くのコースでゴルフをするとき(略)一人のパイロットが作戦用電話のわきに控えており、小屋の外には(略)マギー(※マイルス・マジスター連絡機)が駐機してあった」
No.42261そうだねx5
250847 B
「出動準備が発令されると、このパイロットは(略)ゴルフコースの上をすれすれに飛んで、赤
いベリー信号弾を射つ(略)私はクラブハウスに全力疾走し、大隊長の車をスタートさせて、コースを走って人々を拾い上げ」…ていたそうですwどうもゴルフしながら出撃待機していたと思しきバーダー=サンと部下たちなんですが(棒)そんなバーダー=サンと頻繁にラウンド(とついでに空戦)を共にしていた甲斐あってか、ジョンソン=サンも後には公認撃墜数38機というRAFナンバーワンのエースパイロットに成長し、部隊長としても多くの功績を上げ、空軍少将にまで昇進しておられるんだそうでやはり、ゴルフは部下の教育には最適!…というハナシになるんでしょうか…?
No.42264そうだねx2>ゴルフとかは個人競技だけれど、軍人さんはやっぱり団体競技の方が得意なのかな(偏見
意外と個人競技のほうが多くね?
柔道、剣道、射撃とか
No.42314+零戦の堀越さんは飛行機制作の材料でクラブを作って広い飛行場でゴルフをしたという
当時のイギリスでは整備されていない大自然の中で球を打っていたそうだからけっこう
先進的な趣味だったようだ
No.42338+米軍なんかは各軍に本格的なアメフトチームがあって、軍間や民間との交流戦は毎度盛り上がるとか・・・
お国柄だね
No.42340+
55020 B
本文無し

No.42342+ 29246 B本文無し
No.42354そうだねx1日本海軍だと甲板で剣道や柔道や相撲をしたり
日本ニュースに中国の戦地で剣道をする陸軍の兵隊さんの映像もありましたね
No.42445そうだねx5
56264 B
アメリカ海軍の建設工兵隊(所謂シービーズ)といえば、「やればできる(Cando)!」がモッ
トー、最前線でも大抵のものは作り上げちゃうそうなんですが、ゴルフコースやゴルフ道具なども例外ではなかったらしく、WW2中のシービーズの隊内公報では、南太平洋の「X島」に、同隊が作り上げた9ホールの"YankeeBeeCountryClub"の話が紹介されておりましたりツルハシの柄をシャフトに流用し、スクラップ原料から鋳造したヘッドを取り付けたクラブでプレーするこのコース、「コースメンテナンス」はジミーという名の一頭のヤギさんが担当していたそうなんですがw無粋な日本軍機が飛来して爆弾を投下して行った跡はそのままバンカーに転用されたため、日ごとに難易度が上がるという、スリリングなコースでもあったそうですなお、日本機の爆撃の影響でプレー中同じボールを使用できなくなった際には(棒)1打罰を加えてプレイを再開すべし、というローカルルールが定められていたとのこと
No.42446そうだねx4
79699 B
一方ヨーロッパ戦線では、連合軍最高司令官だったドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワ
ー=サンなども、熱心なゴルファーの一人であったんだそうで氏がロンドンに駐在中の週末を過ごす休息用宿舎は、チャーチル首相もメンバーに名を連ねる名門「クーム・ヒル・ゴルフ・クラブ」の第13ホールにのすぐ隣で、多忙な勤務の合間にも本場のゴルフ場でのプレーは欠かさなかったようなんですが、流石に18ホール全てを回る時間は取れず、適当な5ホール程を選んで1時間ほどで切り上げ、疲労した心身をリフレッシュするというのが常であったんですとかそれでも1945年5月8日、ついにドイツが降伏した日の午後にも、やはりアイゼンハワー=サンは馴染みとなったクーム・ヒルに出かけ、ようやく心の底からくつろいでゴルフを楽しんだそうですそんな氏には戦中の活躍への感謝の印として、ゴルフ界の総本山である英国ゴルフ協会より、名誉会員の称号が贈られているそうなんですが、或いはどんな称号や勲章より、嬉しい御褒美であったかも知れませんですな…w
No.42453+>日本海軍だと甲板で剣道や柔道や相撲をしたり
野球やバレーボールはレクレーションだっけ?
写真見た記憶ある
No.42458そうだねx2デッキゴルフとかはむしろ船の上限定のスポーツだよね
やれたのは士官以上だけだったみたいだけど
No.42470+
1349958 B
自衛隊もサッカーは海自厚木チームがベルマーレと対戦したり野球は空自千歳が巨人軍3軍と対戦したりとか

No.42499そうだねx7
1562328 B
ベトナム戦争に従軍した、米国陸軍特殊部隊員のアール・ウッズ=サンという方は、自身も
野球やゴルフを嗜むスポーツマンであったそうなんですが、愛息のエルドリック君もアール=サン直伝で覚えたゴルフの才能は父親以上、ジュニア時代から天才ゴルファーとして名高かったんですとかそんなアール=サンには「タイガー」の異名を持つ南ベトナム軍人の親友さんがいらっしゃったそうなんですが、息子のエルドリック君が全米ジュニア選手に出場すると決まった日、父「エルドリック・ウッズが悪いというのではない。しかし、これからは大勢の人に覚えてもらうことも必要だと思う。そこで、私が生涯忘れることの出来ない立派な男の名を、お前に名乗ってもらいたい(略)『タイガー・ウッズ』というのは、どうだろう」息子「カッコいいね」…という親子の会話が交わされんだそうで、その後エルドリック改めタイガー・ウッズとなった息子さんは、ゴルフ史に残る活躍ぶりを示し、今や世界で最も有名なプロゴルファーの一人になっておられるわけですな…w
No.42500そうだねx8
280076 B
因みにベトナム戦争中、南ベトナムのタンソニェット空軍基地の片隅にも、9ホールの「サイ
ゴン・カントリークラブ」なる現地の米軍将兵さんのためのコースが造られていたそうなんですが、当時空軍大尉として従軍していたプロのコース設計家の手によるものとあって、かなり本格的な名コースであったそうです但し、コース自体の難しさに加えて、プレイの難易度を更に跳ね上げるハザードとなったのが潜入してくるヴェトコン=サンらが仕掛ける数々のブービー・トラップであったそうでして、第1回「べトナム・オープン」の優勝者だった、空軍情報将校のオリバー・コールマン=サンによれば、ゲームが盛んに行われた3年間に限っても、バンカーの砂の中に仕掛けられた地雷が爆発して6人が死傷、また古いゴルフボールに似せたプラスティック爆弾がラフの中に大量に撒かれてやはり6人が死傷したとのこと無事ホールアウトする為にはプレイヤーにはゴルフのワザマエだけでなく、死神を跳ね除ける強運や決死の覚悟も必要という、刺激的なコースだったみたいですね(棒)
No.42501そうだねx8
71420 B
おまけにフェアウェイを囲む左右の森は狙撃兵が潜むには最適、グリーン上でじっくりパッティ
ングラインを読むのも命がけであったそうなんですが、ある日現れたそうした狙撃兵の一人は「姿も見せず物音も立てず、森の中を亡霊のように動き回って射撃の腕も天才的」という厄介な相手であって、たちまち5人が射殺され2人が重傷、ついに駐在米軍司令官により「ゴルフ禁止令」が発令される事態にそれでも徹底した掃討作戦により、ついに件の狙撃兵は米側に射殺されたそうなんですが、なんと20代前半とみられる、若い女性兵士だった…なんてハナシがのこされているそうです何か似たようなオチのベトナム戦争映画が、有りましたですよね…
No.42505そうだねx2>No.42500
打ち下ろし パー1万…(マテ
No.42533+>似たようなオチのベトナム戦争映画
フルメタルジャケットかな?
ちなみに、あの映画ではラストの没案に、あの少女スナイパーの生首でみんなでサッカーする、
なんてのがあったとか言われているらしい
(検索すると出てくる)
ディズニーのマーチの代わりにそれだったら、多分日本では公開されなかっただろうな・・・
No.42564そうだねx6
51010 B
>打ち下ろし パー1万…(マテ
1956年に、厚木基地勤務だった米軍人さんが帰国前の思い出作りに、富士山を火口をカップに見立てた1ホールとしてプレイしたことがあったそうなんですが、後で勘定してみたところがおよそ「ホール」全長は4千132ヤード、ホールアウトまでに1千275打、ロストボールが27個、所要時間は10時間と50分かかったそうです…w余談ですが戦中その厚木にあった防空戦闘機隊である302空の「零戦」搭乗員だった鶴田光雄さんという方の手記に、親友だった打保潔さんという同僚パイロットさんの話が出てくるんですが、曰く「体育は肉体的にも精神的にも重要である。打保のバレーはあまり上手くはなかったが、皆の気持を朗らかにした。球がどこに行くか解らない打保のプレーはまったく愉快であった」…とのことで、どうやら厚木基地の海軍搭乗員さん達は、出撃の合間に皆でハイキューに興じて心身を練磨されておられたらしいことが窺えましたりw
No.42565そうだねx6
255228 B
また、氏の手記の中に「小金井ゴルフ場」というのも出てくるんですが、この小金井カ
ントリークラブは、建設を始めた昭和12年というのが支那事変勃発の年で、創業者の深川喜一さんはさすがに時勢を憂慮し、近衛文麿サンの紹介で陸軍参謀本部へ赴き、「ゴルフ場建設を続けてもよろしいでしょうか…?(小声)」と打診したそうなんですが、参謀本部の返事は「この事変は12月末で結末がつく、安心して続け給え」と心強いものだったそうです(棒)その後無事ゴルフ場も完成、暫くは運営も順調であったそうなんですが、流石に昭和20年に入ると、インコースは陸軍経理学校に接収され一部がイモ畑にされてしまい、フェアウエイの芝は剥ぎ取られて横田の陸軍飛行場の滑走路に使われてしまったんですとか(戦後に回収したそうですが)更にB-29による本土空襲が始まると、コースにほど近い中島飛行機工場を狙った爆弾のいくつかが逸れてコース内に落下し始めるようになり、3月には近いアプローチ練習場に250キロ爆弾が落下、6月はフェアウエイに4発、林にも一発、ハウスの屋根が吹き飛ばされる…なんてこともあったとのこと
No.42566そうだねx6
306852 B
そして終戦後の12月には、早速進駐してきた米第八軍のサービス部門がコースを全面接収、
日本人会員はプレー禁止となって、結局完全に返還されたのは、昭和29年4月のことであったそうですともあれ、そんな誕生から日本の戦争と歴史の重なった同コースなんですが、鶴田氏や打保氏がそこで戦中ゴルフをした…というわけではなくて、「(※昭和20年)6月10日(略)朝食前にわれわれ零夜戦隊は発進、八王子附近で大山方面より侵入のB29を邀撃した(略)打保は帰投中、後来のP51の多数にたたかれたのである」「翌11日(略)軍医官等と現場、小金井ゴルフ場に行った(略)遺骸はそこから数キロ離れた国民学校に安置されてあったが、彼の身体の大の字のままの形が芝生に刻まれていた」「住民の当時の言述である(略)雲上で空戦の(略)音が聞こえた。やがてゴルフ場上空に打保機が黒煙をはきながら(略)雲より出て来た」
No.42567そうだねx7
55226 B
「ゴルフ場を認めたらしく(略)降下の姿勢で入って来(略)爆発音とともに空中分解し、彼
の大往生となった」「最期まで愛機を保持せんとした敢闘精神にはまったく頭が下るものがある。帰隊後判明したことであったが、身体に数発敵弾をくっていた。彼が最期まで頑張った精神力は偉大である」…と、氏の親友の最後の地となった場所であったんだそうで因みに鶴田氏によると「戦後、一人息子を失った打保の御父上は、心の痛手にもめげず、自転車製造業に精を出され、皇太子殿下に二人乗り自転車を献上された。美智子妃殿下と軽井沢でお乗りになられた写真を見た方もあろう」…とのこと自分は残念ながらその写真は未見なんですが、現上皇様ご夫妻が平和な時代に仲良くサイクリングを楽しまれた自転車には、そんな裏話もあった、ということみたいですねえ…
No.42590そうだねx4バトル・オブ・ブリテン真っ最中の英「リッチモンド・ゴルフクラブ」、
コースに爆弾が落ちた後「爆撃の際の暫定ルール」を採用しプレイを再開した話。

…に対してゲッベルス曰く「ドイツ空軍は爆撃目標を軍事的に重要な施設に限っている!」

……に対してゴルフクラブのコメント
「ドイツ空軍がクラブの洗濯小屋を爆撃しました。つまり軍事施設とみなされたということであります」
No.42613+イギリス人は捕虜収容所でも自分たちでボール作ってゴルフしたらしいからな・・・
靴底のゴムを剥いで芯にして、紐を巻いて作ったらしいんだが、後で比べてみたら
公式球と大きさも重さもまったく変わらなかったらしい
No.42622そうだねx5
25167 B
WW2ドイツの降下猟兵として従軍された、ベルンハルト・カール・トラウトマン=サンと
いう方がおられるんですが、幼少期からサッカーやハンドボールに親しみ、ジュニアの陸上大会では優勝の経験もあるスポーツマンであったものの、入隊直前の職業は自動車の整備士であったそうです東部西部の両戦線で戦い、第1級鉄十字章も授与されている歴戦の勇士だったトラウトマン=サン、最終的にはエゲレス軍の捕虜となっていているんですが、捕虜収容所の中で仲間とサッカーを楽しんでいる最中に負傷、それまでのミッドフィルダーからゴールキーパーにポジションチェンジすることになったんだそうでやがて戦争も終わったものの、トラウトマン=サンは敢て帰国せず、イングランドに留まる道を選ぶんですが、農場での仕事の合間に地元のアマチュアサッカークラブでプレイしていて、その名ゴールキーパーぶりはたちまち評判になったそうです
No.42623そうだねx6
153311 B
噂を聞き付けたプロサッカー1部リーグの幾つかのチームのスカウトが氏を訪れ、最終的
に名門マンチェスターシティへの入団が決まったというんですから、氏のワザマエは実際大したものであったようなんですが、それでも戦争の記憶も生々しい時期とあって、入団直後は一部のファンが抗議のデモを起こすなどの一騒動も起きたとのことそれでもトラウトマン=サンがその後チームの一員として素晴らしい働きぶりを示すにつれ、次第に野次は賞賛へと変わって行き、15年間で545試合に出場し数々の勝利に貢献、チームを代表するスタープレイヤーの一人になっているんだそうで降下猟兵の訓練が、キーパーの才能を伸ばすのに役立ったか否かは定かではないんですがw若し仮に戦争が起きなかったら、或は東部戦線および西部戦線を転戦する間に戦死してしまっていたら、運よく英軍の捕虜になれなかったなら、捕虜収容所の中でサッカー中に負傷していなかったなら、元「敵軍」のプレイヤーを最終的に英側が受け入れなかったら…どれか一つだけが欠けても、サッカー史上に残る名ゴールキーパーは、生まれずに終わってしまったかもしれないですなあ
No.42665そうだねx1>No.42622
>No.42623
このエピソードって確か最近映画化されてましたね
Youtubeで予告見たことがある
No.42694+
98542 B
アメリカだと警察や軍隊もモータースポーツしてるんだな
リクルートのためらしいが
No.42718+横田基地の公開の時見に行ったらドラッグカーが飾ってあってなんでかと思ったら
吉内で作って滑走路で走らせていたらしい