野球0@2021年07月ふたば保管庫 [戻る]


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安田猛さんが死去 ヤクルト「ペンギン投法」Name名無し21/02/21(日)01:18:41 IP:180.12.*(ocn.ne.jp)No.923600+
23年10月頃消えます  プロ野球ヤクルトで主力投手だった安田猛(やすだ・たけし)さんが死去したことが20日、関係者の話で分かった。73歳。福岡県出身。がんで闘病していたという。

 福岡・小倉高から早稲田大、大昭和製紙を経て1972年にドラフト6位でヤクルトに入団し、7勝5敗、防御率2.08の好成績で最優秀防御率に輝き、新人王に選ばれた。「ペンギン投法」と呼ばれた独特の左サイドスローで、81イニング連続無四死球のプロ野球記録を作った73年も防御率1位でタイトルを獲得。78年の初のセ・リーグ優勝、日本一に貢献した。

 81年の引退後はコーチ、スコアラーなどを務め、小倉高でも指導した。
https://this.kiji.is/735867073625145344 削除された記事が1件あります.見る
No.923601+昨年のドリームゲームで投球を拝見し感激しました
故人のご冥福をお祈りいたします
No.923602そうだねx8
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俺にとっては本人よりもこっちのイメージが強い人だった

No.923605+
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巨人は23日、会田有志巡回投手コーチ兼トレーニング統括の実父・照夫さん(元ヤクルト投手)が22日午後6時19分、虚血性心不全のため、埼玉県春日部市内の病院で死去したと発表した。73歳だった。
 通夜・告別式は近親者のみで執り行う。喪主は妻・由美子(ゆみこ)さん。供花・香典などは辞退する。 会田照夫さんは上尾高、東洋大、三協精機を経てヤクルトに入団。アンダースロー投手としてプロ通算273登板で29勝45敗3セーブ、防御率4・34。 三男の会田有志コーチも現役時代はアンダースローで佐野日大高、中大を経て巨人に入団。通算37登板で3勝2敗、防御率2・88。日本プロ野球史上初となる1軍での親子勝利投手となった。https://hochi.news/articles/20210223-OHT1T50142.html
No.923610+書き込みをした人によって削除されました
No.923611+松岡・安田・浅野・会田・西井・井原…、ヤクルトが溜め息が出るほど弱かった、そして広岡監督のもとビックリするほど強くなったヤクルトの屋台骨を支えた一人。
そして実は小倉高→早稲田大→大昭和製紙とその当時のアマチュア野球の王道を歩んだ超エリートでポンコツ球団(当時w)ヤクルトには不釣り合いな逸材だった事実。

ご冥福をお祈りします。
No.923613+
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 阪神は5日、球団OBの三宅秀史氏が3日に心不全のため、三重県内の病院で死去したことを発表した。享年86歳。通夜、告別式は近親者のみで執り行われた。
 1953年に入団した三宅氏は守備の名手として名をとどろかせ、吉田義男、鎌田実とのトリオで「100万ドルの内野陣」と呼ばれる鉄壁の守備陣を形成した。57年にはリーグ最多の31本の二塁打を放つなど活躍し、ベストナインにも選出された。https://www.daily.co.jp/tigers/2021/03/05/0014127764.shtml 2004年に金本知憲に破られるまで、882試合連続出場、700試合連続フルイニング出場を続けるなど、元祖鉄人としてもチームをけん引した。
No.923666+
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70年代後半の広島黄金時代を支えたエイドリアン・ギャレット氏が肺炎のため22日に死去したことが分かった。AP通信が伝えた。78歳。
ギャレット氏はカブスなどでプレーし、77年に広島に加入した。山本浩二、衣笠祥雄らと強力打線を形成し3年間で102本塁打を放った。79年にはリーグ優勝、「江夏の21球」で知られる近鉄との日本シリーズ制覇にも貢献した。弟ウェインは79、80年に中日でプレーした。現役引退後は米国に戻りマイナーリーグのコーチなどを務めていた。https://www.nikkansports.com/baseball/news/202104240000042.html
No.923668+は、肺炎?
まさかとは思うが…。
No.923688+
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【ロサンゼルス共同】プロ野球阪神で強打者として活躍したハル・ブリーデンさんが3日に死去していたと地元紙オールバニ・ヘラルド(電子版)が10日までに報じた。76歳だった。
 米ジョージア州オールバニ出身。大リーグのカブス、エクスポズ(現ナショナルズ)を経て1976年に阪神入り。珍しい左投げ右打ちの内野手で、来日1年目に40本塁打を放つなど田淵幸一、掛布雅之らとともに強力打線の一角を担った。 阪神では3年間で通算260試合に出場し、打率2割5分1厘、79本塁打、194打点。大リーグでは5季プレーし、通算274試合で打率2割4分3厘、21本塁打、76打点だった。https://news.yahoo.co.jp/articles/7d8a3e40dc4eb85473ae3c4f5f4eb42f11607962
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元読売巨人軍投手でV9の1年目の1965年には20勝を挙げるなどした中村稔(なかむら・みのる)氏が2日、死去した。82歳だった。葬儀は家族のみで執り行われた。
三重県出身。宇治山田商工高から、1957年に巨人入団。61年には17勝で自身初の2けた勝利をマークし、川上哲治監督就任1年目でのリーグ優勝、日本一に貢献した。通算352試合に登板し、72勝53敗、防御率2・76。69年に現役引退した後は、巨人、ロッテで投手コーチを務めた。https://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/20210618-OYT1T50239/