ニュース表3@2020年11月ふたば保管庫 [戻る]

1923年9月30日、関東大震災後の朝鮮人収容所訪問記事Name名無し20/11/01(日)21:35:44 IP:111.108.*(enabler.ne.jp)No.3843550+ 12日11:14頃消えます この前の朝鮮人労働者関連記事もそうでしたが、併合時代の朝鮮の記事を読んでみると、『朝鮮以外の地域を、記者が自分で取材したもの』がそうありません。これは、各新聞社の取材能力の問題というよりは、人力を含めたインフラの問題かもしれません。関東大震災の際は特にそうで、そもそも日本から情報を発してくれるところが殆ど無かったので、『〜だそうだ』な記事以外に、朝鮮の記者たちがちゃんと取材して自分の目で見て書いた記事は、ほとんどありません。これもまた、状況が状況だっただけに、新聞社からすると仕方ないことだったかもしれません。

よく問題となる「いわゆる朝鮮人虐殺」の件ですが、警務局が発表した「朝鮮人が暴行されたというのは一部だけであり、噂に動揺しないように」という内容を載せただけの記事もあるけど、海外の抗日団体が「無数の朝鮮人が惨殺された」と発表したと紹介する記事もあるし、「地震以外のことで多くの同胞が殺された」と迂回的に書いている記事もあれば、逆に「朝鮮人と日本人が力を合わせて頑張っている」と書いている美談っぽい記事もあり、世界中から日本に向けられた人道的支援に感動したとする記事もあります。
No.3843551+個人的に『本当かどうかが確認できない状態、朝鮮人が虐殺されたというのはかなりセンセーショナルな話だったはずなのに、関連報道そのものが禁じられていなかった』のが印象的でした。ちなみに、海外の団体というのは、ハワイの「国民会」で、朝鮮人虐殺を米国に調べてほしいと要請しているとか。彼らが主張する死亡者数は500人でした(1923年11月29日東亜日報)。

そんな中、東亜日報の特派員イ・サンヒョプ氏が、1923年9月30日、千葉県にある朝鮮人収容施設を訪れ取材した記事がありましたので、紹介します。施設には朝鮮人だけでなく中国人も1691人が収容されており、当時の日本は戒厳状態だったようで、訪問には戒厳司令部の許可が必要だった、となっています。

<東京付近で朝鮮人をもっとも多く収容しているとことは、千葉県下習志野である。私(特派員)は東京に到着した次の日からここを訪問するためにいろんな関係官庁に交渉してみたがうまくいかず困っていたところ、19日になってからやっと、戒厳司令部の将校と同行することで、心配も多く嬉しさも多い道を自動車で二時間半走り、目的地に到着できた。
No.3843552+習志野は東京から80里(※朝鮮の里は日本とは長さが違います)離れたところであり、騎兵旅団の所在地であり、兵隊の練習場がある。朝鮮の人たちを収容しているのは、九州大戦のときに青島で捕虜にしたドイツの砲兵たちがいた居所と、東京から軍隊が練習にきて使っていたが古くて今は使っていない居所の二ヶ所であり、収容されている朝鮮の人は3024人で学生が約170人、それ以外はほとんどが労働者で女子も60人はいて、子供も少なくないし、側には中国人労働者も1691人がいるという。

所長である内富少佐からおおまかに説明を聞いた。最初は、一気に大勢の人々が押し寄せてきて、食糧ほかいろいろ実に困難であったが、様々な形で周旋し、食糧も一日に1人米2ホプ(※ホプ、홉は日本で言う『合』で、約180mlです)、麦2ホプずつ与え、やっとの思いでご飯を入れる茶碗も用意でき、今日からは初めてお湯を与え、汁にして食べるようにしたといい、ご飯を炊いて分配したり清潔・掃除などは収容されている人たちでやるようにしてあり、18日からは外で運動することも許可したという。

https://sincereleeblog.com/2020/11/01/19230930/