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Name名無し20/02/11(火)09:01:03No.62402そうだねx1 21年12月頃消えます 「共産主義」という目くらましの言葉

ロシア革命の真実

ソビエト赤軍はどういう連中だたのか
No.62425+ナチスドイツを滅ぼせたのは何よりソ連軍の功績がでかいというか
毒を以て毒を制す世界大戦だったという事だw
No.62426+>何よりソ連軍の功績
レンドリースやら頑張ったアメリカだと思うけど
No.62427+人を人とも思わない人海戦術の力技押し返したわけでして
本土と戦場が直接つながってる方が強いよ
No.62429+実のところアメリカを参戦させた日本の功績が最も大きい(チャーチル)
No.62433+フランス革命もそうだけど、いざ革命が起こり、どの程度の変化を望むかとなったとき、中間勢力は結局のところ一掃されてしまうことになるのかな?
ボルシェビキも革命当初は決して多数派ではなかった

ただそこからあと、組織自体が急進派をじゃんじゃん粛清して保守へと体質を変えて行けるかは、指導者の手腕に依りそう
ロベスピエールもそうだけど急進派が延びちゃうと内ゲバで終了する
No.62456+それではここで一曲
https://youtu.be/EDx6rsapKqE
No.63070+ロシア革命は寄生虫の乗っ取り
そんなのを革命と呼ばされている

ソビエト赤軍はウクライナの寄生虫ユダ公だ
そのユダ公のロシア乗っ取りを
既にユダ公に乗っ取られた各国が支援した
その中の最大勢力が日本軍
日本軍は7年間もロシア人を殺しまくった

それを「シベリア派兵」などと呼んで
あたかもシベリアだけの攻撃だと国民に思わせている
最低だ日本て国は
No.63209+それではここで一曲。古きよき昭和の風景とともに・・・
https://youtu.be/84jIC0fUQOs
No.63377+それではここで一曲。どこもかしこも大ヘンなご時世ですが。
https://youtu.be/rs2_Ac4sJXQ
No.63511+人心掌握するために壮大なハッタリが必要だったんだろうね
No.63516+それではここで一曲。
https://youtu.be/8x4XnMP4l3w
No.63517+それではここで一曲。
https://youtu.be/EeD0twMtfCI
No.63553+「約束の土地へ」(1989)と「夢を眠らせないで」(1993)。この二曲に共通するのは、機動警察パトレイバーの映画版用に作られたものであること、イメージソング扱いで本編には使用されていないこと(劇場で上映された予告編では流れるものの知らなかった人も多いのではないか)である。続けて聞いてみると「降りかかる災厄」と「その終わり」を意味しているようにもとれる。第一作目で重要な鍵となるのはコンピューターウィルスだし、それの拡散によって首都圏が大混乱に陥るのはご承知の通り。それにバビロンプロジェクトとオリンピックを符合させてもいいかもしれない。第二作目では厳戒態勢下の東京が描かれることになるがこれも現実の出来事になっているようである。これが偶然なのかどうなのか筆者には見当がつかない。もちろんこれを途方もない驚きであると言うことはできる。しかしそれと同時に途方もなく無意味な妄想(深読み)だとも言えるのである。例によってこんなことを考えなくても世の中は渡っていけるから深く考える必要はないが。それではここで一曲。https://youtu.be/QZOQUiroYGU
No.63586+>「愛を眠らせないで」(1993)
No.63623+それではここで一曲。時代に閉塞感が漂いはじめると、こんな気分にもなりますよね。
https://youtu.be/1hA6J9ON-ZQ
No.63687+肩を寄せ合っただけでもいろいろ言われかねないこのご時世、仕方がないと言うべきか世知辛いと言うべきか・・・それではここで一曲。
https://youtu.be/-kT03F9grKI
No.63749+ソ連時代の軍人にミハイル・カトゥコフという人物がいる。生まれは1900年というからロシア革命の時期に青年期を迎えていたようである。貧乏な農民の出身で、子沢山な一家だったという。彼が労農赤軍に入隊したのは1919年のことである。このころロシア革命はまだ完全に成っていない。国内の反ボリシェビキ勢力の活動はもちろん、外国からの干渉も激しさを増していた。ロシア内戦における一兵卒として始まったカトゥコフの軍隊人生であるが、入隊当初から優秀な若者として目をつけられていたようにも思える。1920年に歩兵指揮官としての訓練を受けることになり1922年に修了。以後、堅実に実務経験を積み上げていきながら、各種の高等軍事アカデミーでの教育を受け、当時最先端の軍事技術である機械化部隊の指揮官として専門教育を受けたのは1935年のことである。ほぼ同時期に進行していた「大粛正」にも生き残っているから、まずは現場一筋の職人気質の軍人だったのであろう。ちなみにソ連共産党へは1932年に入党している。そして第二次大戦が始まる直前、彼は第20戦車師団の指揮官としてソ連ポーランド国境に赴くことになるのである・・・という話である
No.63751+>そして第二次大戦が始まる直前、彼は第38戦車旅団の指揮官としてソ連ポーランド国境に赴くことになるのである・・・という話である
No.63759+>>そして第二次大戦が始まる直前、彼は第5軽戦車旅団の指揮官としてソ連ポーランド国境に赴くことになるのである・・・という話である
No.63765+1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻する。第二次大戦の始まりである。同月17日ポーランド東部国境にソ連の大軍が押し寄せる。独ソ不可侵条約に付属する秘密議定書に基づく軍事行動である。カトゥコフの率いる第5軽戦車旅団もウクライナ軍管区からこれに加わっている。旅団の装備していた戦車はBT戦車若干とあとはT-37/T-38軽戦車ということなので、高い機動力を持った快速部隊であったらしい。率直に言えばあまり強力な戦力ではないが、「大粛正」という大混乱を経たばかりの労農赤軍の機械化はまだまだ発展途上であったとも言える。しかしまあこの時期の状況は大国同士のチェスゲームみたいなもので、特に大きな戦闘には巻き込まれなかったようである。同年10月にポーランドでの作戦が終了したあと、BT戦車の数が増えてそれなりの戦力を整えることになるのであるが。1940年6月、第5軽戦車旅団は南部に移動して当時ルーマニア領だったベッサラビア地方に進駐。カトゥコフは1940年7月までこの職務を遂行し、その後ごく短期間の第38軽戦車旅団長職を経て、キエフ軍管区で編成された第20戦車師団長に転じるのである・・・という話である
No.63772+キエフ特別軍管区で第9機械化軍団が編成されたのは1940年11月のことである。書類上では戦車二個師団(第19、第20)と歩兵一個師団を基幹とする一大機械化部隊である。しかしカトゥコフの赴任した第20戦車師団にあったのは僅かなBT戦車と装甲車若干に過ぎなかったのである。もちろんこの部隊はまだ編成途上で、これから装備や人員は増えていくことになるのであるが、ソ連はすでにナチスドイツと国境を接しているのである。労農赤軍の機械化が「大粛正」によって停滞してしまったのは否定できないように思える。これによって労農赤軍の機械化、近代化を推し進めた先見性のある将官のほとんどが処刑され、その手足となって働いた将校たちも断罪されて第一線から一掃されてしまったのである。残された者たちは手探りで、今後起こりうる戦争の準備をしなくてはならなかったのである。今のところナチスドイツの関心は西欧に向けられていたが(フランス侵攻1940.5 - 6、英国本土航空戦1940.7 - 10)風向きはいつ変わるかわからない。果たせるかな、西欧での戦局が手詰まりになったナチスドイツは、その矛先をソ連に向けてくるのである・・・という話である
No.63811+ナチスドイツの装甲部隊は1941年春の時点で数多くの実戦経験を積んでいる。ポーランド、フランス、バルカン諸国といった様々な戦場を走り抜け輝かしい勝利を収めていた。一方ソ連戦車部隊はと言うと多少心許ない部分がなくもない。森林地帯を歩兵主体で力押ししなければならなかったフィンランドとの戦争(冬戦争1939.11 - 1940.3)はともかく、ほとんど唯一といっていい戦車主体の戦闘は極東における満蒙国境地帯での日本陸軍との紛争、いわゆるノモンハン事件(ハルハ河の戦い1939.5 - 9)があるのみだったのではないか。日本陸軍第一戦車団(戦車第3、第4連隊基幹)との死闘やノモンハン事件の決着をつけたともいえるソ連側による二重包囲戦は遠く極東の地で成されたものである。当時のソ連で最も実戦経験豊かな労農赤軍の戦車兵たちはモンゴル人民共和国(ソ連の衛星国)からソ連にかけての国境地帯で満州国(日本の傀儡国)の日本陸軍と睨み合っていたのである。1941年春の時点でソ連と欧州との国境地帯に、実戦を経験した戦車兵はほとんどいなかったように思える。そして世界は1941年6月22日を迎えるのである・・・という話である
No.63831+
39890 B
「共産主義」はロスチャがマルクスに書かせた机上の空論
そんなものは存在しないロシアが寄生虫ユダヤ人に乗っ取られた状態を共産国家と呼び中国が寄生虫満州族に乗っ取られた状態を共産国家と呼ぶつまり寄生虫民族を隠すのが「共産主義」という魔法の言葉
No.63837+> 「共産主義」はロスチャがマルクスに書かせた机上の空論
この世界線だとフーリエとかの空想的社会主義や老子の原始共産主義なんかはどういう扱いなの?
No.64002+もうちょっと妄想を続ける。軍人としてのカトゥコフという人物はどうも地味な感じである。冷遇されていたわけではないのであるが、ぱっとしないのである。熱烈な共産主義者ということではないようであるし、恐らく政治的野心のようなものが希薄だったので、平時においては目立たない存在だったのではないかとも思える。そういう意味では、軍人としてはほぼ同期といっていいパーヴェル・ロトミストロフ(1901 - 1982)の経歴のほうが、如何にも労農赤軍らしい感じである。1919年に労農赤軍入隊するが、それとソ連共産党入党が同時期であり、1921年にクロンシュタットで起こった反ボリシェビキ峰起を鎮圧するために兵士として従軍しているというから相当なものである。実務経験を積みながら各種の高等教育を受けたのは彼も同じだが、ある時期から軍事理論家としての側面を持ちはじめるようである。しかし1930年代後半の「大粛正」で逮捕された将官たちとの関係が問題視され危うく連座しかかっている。汚名挽回というわけなのか冬戦争(1939.11 - 1940.3)では志願して最前線を希望し、勲章を授与されるほどの奮闘を見せるのである・・・という話である。
No.64005+なんかソ連英雄伝説みたいになってきたが、気にしないで続ける。ロトミストロフが「大粛正」を生き残ったのは、恐らく軍事理論家としての価値を党中央が惜しんだからであるようにも思える。十代でソ連共産党に入党することを許されているのであるから、大変な切れ者だったのであろう。二十代で労農赤軍内部の目付役とも言える政治将校をやったりもしている。しかしロトミストロフが頭角を現してくるのは、機械化部隊の運用に関する見識を認められてからである。1933年、彼は特別赤旗極東軍司令部へ転出することになる。当時の極東地域は、日本の大陸進出(満州国建国1932)によって緊張が高まりつつあったようである。ここではすでに労農赤軍が長大な国境線を守るためには、火力と機動力を備えた戦車と自動車化された歩兵を効率的に運用するしかないというコンセンサスが形成されていたのではないか。数年に及ぶ極東軍勤務によってロトミストロフが得た洞察は、のちに「スターリン労農赤軍自動車化・機械化士官学校」における講義として労農赤軍内にフィードバックされたのではないか・・・というのが筆者の妄想なのであるが特に根拠はない・・・という話である
No.64008+そんな無意味なこと考えなくていいんだよ
主要各国は寄生虫民族に支配されている
欧米を支配しているのは、アシュケナージ・ユダヤ人だ

でもロシアはロシア人による国だったから、欧米がよってたかって攻撃していたわけ
No.64019+>反ボリシェビキ蜂起
No.64067+あれだけ失敗レが多いのに未だに続けてるって
もう引っ込みがつかなくなっちゃったんだろうな
持論を引っ込める事は恥じゃない
アップデートしないで迷惑をかけ続ける事こそ恥だよ
No.64075+まあ筆者としてはメモか覚え書きぐらいの感覚でこのスレッドを使わしてもらってるわけであるが、読み返してみると、我ながら多少変なところが目に付いたりする。実際は独ソ戦の話をやりたかっただけなので、ソ連(労農赤軍)軍と日本陸軍の関わりについてはまったくの余談である。日露戦争以降、この二つの軍隊は極東地域での宿敵同士だったといっていいのかもしれない。西欧列強の老獪さとは対照的に、勃興間もない大日本帝国の行動は、いかにも自国第一主義的な直情的なものだったのであろう。日露戦争から三十年足らずの間に朝鮮半島を完全に押さえ、中国東北部に傀儡国家まで造ってしまったのであるから。日露戦争の結果が帝政ロシアの崩壊にどの程度影響したのか筆者はよく知らないが、この期間の帝政ロシア・ソ連の極東政策は不安定な国内事情のために防戦一方だったのである。しかし日本の方も広がりすぎた版図を維持するために四苦八苦することになり、のちにこの膨張政策が米国との関係悪化を招くことになる。ソ連は人跡疎らな極東地域より欧州正面を重視していたし、日本にはまったく余裕がない。かくして極東地域は・・・(以下略)・・・という話である。
No.64105+>日露戦争(1904.2 - 1905.9)
No.64117+1941年6月22日にナチスドイツがソ連領に侵攻するのであるが、極東地域でも緊張が高まっていた。日本陸軍による、満州国における動員演習「関特演」(関東軍特種演習)が始まったのは、1941年7月7日のことである。演習とは言うものの、誰の目からみてもソ連に対する戦争準備であるのは明白であった。十四個師団から成る関東軍の人員を戦時定員にまで充足し、更に日本本土から二個師団を移送して在満戦力を増強するのである。独ソ戦の戦況によっては日本が漁夫の利を得ようということである。もちろんソ連側もこういう事態を想定していたようである。いわゆる「シベリア軍団」として、極東地域からモスクワ防衛のために移送された部隊もあったのであるが、日本側が思っていたほどソ連極東軍の戦力は低下しなかった。どうやら引き抜かれた部隊の穴埋めに、新規に編成した部隊を極東地域に配備したため数的な弱体化は起こらなかったらしい。従来以上に隙を見せないソ連極東軍に関東軍も手を出しかねたようである。結局この時点で日ソの軍事的衝突は起こらず、この状態は1945年8月のソ連の対日参戦まで続くのである・・・という話である。
No.64183+ソ連のスパイでリヒャルト・ゾルゲ(1895 - 1944)という人物がいる。太平洋戦争前夜の日本を揺るがせた、有名なゾルゲ事件は彼の名前からきている。ドイツ人新聞記者として各界の要人に取り入り、国際的な共産主義者のネットワークを背景に、日本だけではなく東アジア全域の情報を収集していたようである。スパイはスパイであって労農赤軍とは関係ない・・・と思うかもしれないが、実は彼も労農赤軍の一員なのである。ゾルゲの所属していたのは労農赤軍参謀本部第四局、いわゆる軍情報部(GRU)である。一般的にソ連の対外情報の収集と分析は内務人民委員部(NKVD)が担当していて党中央に直接報告されていたらしい。国防関連の情報収集となると軍情報部の出番となるのであるが、極東地域の軍事上の脅威となっていた日本の情報は参謀本部が直接管理していたのかもしれない。ゾルゲたちのチームは様々な情報を収集して分析しモスクワに報告しているが、その中でも決定的だったのは今後の日本の矛先が南方の資源地帯に向かうのを察知したことであろう。1941年10月、ゾルゲたちは逮捕されその後処刑されるのであるが、のちに彼はソ連邦英雄に叙せられるのである・・・という話である。
No.64462+スターリンという人はいろいろと複雑な側面を持っていた。政敵や反抗的な知識人には情け容赦がなかったが、農民出身者の朴訥さを好んでいたようなところもあって、一概に冷酷非情な独裁者と言いきってしまうこともできないのである。一説によるとカトゥコフはスターリンのお気に入りの一人だったともいう。独ソ戦劈頭でのソ連戦車部隊はまったくいいところがない。カトゥコフの率いた第20戦車師団も、会敵初日で戦車をほとんど失ってしまう有様である。それでも師団の残余をかき集めて抵抗する意思を示しているのであるから、カトゥコフも兵士たちも戦意が乏しいということではなかったらしい。戦車のない戦車師団なので単なる歩兵部隊なのであるが、それでもウクライナに侵攻してきたドイツ南方軍集団の先鋒である第一装甲集団に対峙したのである。このあと史上最大の包囲戦が展開するウクライナ(キエフ包囲戦1941.8 - 9)にあっては、恐らくカトゥコフも戦死か捕虜かということになったであろう。しかし彼はまだツキに見放されていなかった。カトゥコフとその部下の戦車兵たちが、後方に下げられて再編成されることになったのは1941年8月のことである・・・という話である。
No.64468+第二次大戦のソ連の戦車といえばT-34中戦車であるが、1941年6月の時点では配備が始まったばかりの新鋭戦車で、それほど数が揃っていなかった。数的な主力は依然としてT-26軽戦車やBT戦車だったのである。ドイツ軍は三つの軍集団に分かれてソ連に侵攻を始めたが、そのうちドイツ南方軍集団を正面から迎え撃ったのはソ連南西方面軍である。ブロディの戦い(1941.6.23 - 30)として知られるロシア南部における最初の激突はソ連側の完敗で終わった。ソ連南西方面軍は六個機械化軍団(カトゥコフの所属する第9機械化軍団も含む)をこの戦いに投入したが、数で劣るドイツ第一装甲集団の前に敗れ去ったのである。ソ連南西方面軍が投じた戦車の中には七百両以上にも及ぶT-34中戦車とKV-1重戦車が含まれていたが、ドイツ軍装甲部隊によって撃破されたものもさることながら、乗員が放棄したことによって損耗した車両も少なくなかったという。ここでソ連戦車部隊の足を引っ張ったのは、士気の問題というより練度不足の問題であったろう。開戦劈頭のこの時期、百戦錬磨のドイツ軍装甲部隊に対してソ連戦車部隊はまったく太刀打ちできなかったのである・・・という話である。
No.64488+「負け戦の渦中で一握りの小戦隊が奮闘する」という物語は誰しもが興味をそそられる。独ソ戦に関心のある人なら、もっぱらドイツ軍の物語としてよく知っているはずである。しかし独ソ戦前半のソ連(労農赤軍)軍だって同じような苦労をしているのである。ナチスはドイツ国家とその国民を道連れにして悲劇的で悲惨な終わりを迎えるのであるが、ソ連は強烈なパンチを何度も喰らって何度もダウンするものの、その都度立ち上がり最終的には勝利する。誤解を恐れずに言うなら、筆者は以前から「これって娯楽作品の王道展開だよなあ・・・」と思っていたのである(頭にあったのはロッキーである)。実際には軍民合計で何千万人も亡くなっているような戦争であるから迂闊に面白おかしくできないのであるが、多少の考察を加えつつ何らかの教訓が引き出せればと考えながら書いている。基本的な資料としては日本語版英語版ロシア語版のWikipediaを参考にしている。ただし筆者は外国語に不自由な人なので、外国語のWikipediaは機械翻訳されたものを読んでいるが、読み違えたり勘違いしたりといったことを頻繁にやらかしているのを白状しておく・・・という話である。
No.64489+それではここで一曲。
https://youtu.be/aVH_2X3q6xc
No.64498+1941年6月22日の独ソ戦開戦時、ロトミストロフは第3機械化軍団(第2、第3戦車師団、第84自動車化狙撃兵師団基幹)の参謀長であった。冬戦争で汚名は返上したものの、その後は労農赤軍中枢に戻ることはなく、前線部隊で勤務することを望んだようでもある。第3機械化軍団の所在した沿バルト軍管区は、1940年6月にソ連によって占領された旧バルト三国(現在は独立を回復している)の領域をもとに同年7月に設けられたものである。第3機械化軍団が立ち向かったのはドイツ中央軍集団、その北端を進撃する第三装甲集団である。しかし数日に渡る戦闘で第3機械化軍団は人員の半分と装備車両の大半を喪失し、事実上壊滅してしまうことになる。余談ながら、いわゆる「街道上の怪物」として有名なKV-2重戦車は第3機械化軍団の所属だったりする。ともあれ軍団司令部とその残余の部隊はドイツ装甲部隊によって寸断され、混沌と化したリトアニアから撤退を余儀なくされるのである。どうもこのへんは整然とした撤退戦というわけではなく、装備を失った軽装の兵士たちによる退却行だったようでもあり状況ははっきりしない・・・という話である。
No.64506+第3機械化軍団の残存戦力は、リトアニアからベラルーシを経由してブリャンスク地区にまで退却を続けることになる。追撃するドイツ軍を防ぎながら、およそ二ヶ月にわたる後退戦である。ソ連側の支配地域にたどり着いた時には装備も何も無くした状態で、結局1941年8月16日に第3機械化軍団の解散が決定されるのである。もちろんこれは形式的なもので、とっくに消滅した部隊の死亡通知を発行したに過ぎないのであるが。この決定によって軍団参謀長の職を解かれたロトミストロフだったが、戦意は些かも衰えていなかった。しかし緒戦でソ連側が受けた打撃は破滅的といっていいほど深刻なものである。開戦からごくわずかな期間で、ソ連が1939年9月以降に占拠したバルト三国からポーランドにかけての領土は失われ、そこに展開していた戦力は壊滅してしまったのである。特に機甲戦力の中核として戦前から準備されてきた機械化軍団は、そのほとんど全滅といっていい状況である。とにもかくにも戦車部隊の再建が急務であった。ソ連国防委員会が下した判断は、新規に生産された戦車をもって小粒な部隊を数多く編成し効率的に運用するしかないというものであった・・・という話である。
No.64511+>第3機械化軍団(第2、第5戦車師団、第84自動車化狙撃兵師団基幹)
No.64515+>特に機甲戦力の中核として戦前から準備されてきた機械化軍団は、そのほとんどが全滅といっていい状況である。
No.65152+ソ連国防委員会(1941.6.30 - 1945.9.4)は独ソ戦の始まりとともに設立された。ナチスドイツのソ連侵攻はスターリンにとって寝耳に水とか青天の霹靂と言っていいほどの出来事だったようである。要するにまったく予期していなかったのである。ヒトラーやナチスを完全に信用していたわけではないだろうが、各方面からもたらされる情報を無視していたような節もあって、この辺の事情はよくわからない。さすがのスターリンも開戦から数日は意気消沈していたらしい。しかし気持ちを切り替えて立ち直ったあとの行動は素早かった。早い段階で戦争指導の一本化を図り、強大な権力を集中した国家防衛委員会を設置し、その議長に就任するのである。副議長は腹心であり友人でもあったヴャチェスラフ・モロトフ(1890.3.9 - 198611.8)だったというから、その場でのスターリンの意向は絶対的なものである。独ソ戦開戦まで労農赤軍の最高意思決定機関であった最高軍事評議会は廃止され(1941.6.23)、同日労農赤軍最高司令部(大本営Stavka)が開設されるが、これはすぐに改編されて、スターリンを最高司令官とする体制にとって代わるのである・・・という話である。
No.65159+とりあえずここで状況を整理しておく。1939年8月独ソ不可侵条約締結。同年9月ナチスドイツのポーランド侵攻(独ソによるポーランド分割)。1940年6月ソ連によるバルト三国侵攻、ルーマニア領ベッサラビア、北ブコビナ進駐。1941年4月日ソ中立条約締結。同年6月独ソ戦開戦・・・というのが現在の状況である。開戦から一週間ぐらいは1939年9月以前のソ連ポーランド国境付近での攻防、いわゆる「国境の戦い」が繰り広げられることになる。ブレスト要塞守備隊のように頑強に抵抗した例もあるが、ここでソ連(労農赤軍)軍の主力、第一線部隊がほぼ壊滅するのである。そこからは一気呵成にドイツ軍はロシアの心臓とも言える首都モスクワの間近になだれ込んでいくのであるが、あまりの快進撃に兵站が追い付いてこない状況になってしまうのである。スモレンスクの戦い(1941.7.6 - 8.5)以降ドイツ中央軍集団の戦車の稼働率は半分以下に落ち込んでしまう。対するソ連(労農赤軍)軍も緒戦で失われた戦力の回復に全力を注いでいたが、現状は十分な予備戦力を確保する余裕もないほど切迫していた。この時点で独ソ両軍が共に欲していたのは時間だったのである・・・という話である。
No.65160+1941年4月、日ソ中立条約締結。調印を終えたモロトフがスターリンの執務室に報告にやって来た。
「滞りなく終わりました、同志スターリン」
「日本人か、あいつら本当に約束を守るのかなあ・・・?」
「私も若干不安がありましたので、念のために署名のあと日本の儀式も非公式に執り行いました」
「・・・何をやった?」
「日本人はユビキリゲンマンと言ってましたが・・・」
No.65164+>独ソ戦開戦まで労農赤軍の最高意思決定機関であった最高軍事評議会は廃止され(1941.6.23)、同日労農赤軍最高司令部(大本営Stavka)が開設されるが、これはすぐに改編されてスターリンを最高司令官とする体制に移行する(1941.7.10)のである・・・という話である。
No.65195+>第3機械化軍団が立ち向かったのはドイツ北方軍集団に属する第四装甲集団である。
このへんはうろ覚えの記憶だけで書いてみたのであるが、やっぱりおかしかった。第3機械化軍団はまとまって戦闘に投入されたわけではなかったようである。所属するソ連第11軍の命令によって、第3機械化軍団を形成していた三つの師団のうち、第5戦車師団はドイツ中央軍集団第三装甲集団との戦闘に投入され、第84自動車化狙撃兵師団はまた別の地域に移動していて第3機械化軍団の戦力は実質戦車一個師団だけだったらしい。沿バルト軍管区に展開するソ連北西方面軍は全力を以ってドイツ北方軍集団に対処するのであるが、やはりここでも力及ばなかった。ありったけの機甲戦力である二個機械化軍団、第3機械化軍団と第12機械化軍団はドイツ第四装甲集団に敗れるのである(ラセイイナイの戦い1941.6.23 - 27)。第3機械化軍団の残存戦力(つまり第2戦車師団の生き残り)はドイツ軍を防ぎながら後退することになるのであるが、のちに彼らはロトミストロフが率いる第8戦車旅団に所属してドイツ装甲部隊に再び挑むことになるのである・・・という話である。
No.65577+前述した通り、これは筆者の落書きなのであるが、独ソ戦の知識がないと読んでも意味がわからない部分も多々あると思う。そういう意味では、これは「ロシアと言えばソ連、ソ連と言えば独ソ戦、独ソ戦と言えば戦車」という連想ができる人向けである。戦記漫画から独ソ戦に関心を持った人なら、筆者が何を思い浮かべながらこれを書いているか、何となく理解してくれるであろうと思う。ここからソ連(労農赤軍)軍はソ連軍と呼称することにする。革命防衛機構としての労農赤軍は、ソ連国防委員会の設置とともに大きく変質していくことになるからである。ナチスドイツとの全面戦争は、つまり国家総力戦である。軍事力はもちろん、その共同体のあらゆる力が結集されなければならない。しかもソ連は国内で敵の迎え撃つのである。そこに住む民衆にとって選択の余地はない。侵略者におもねるか、武器をとって戦うかである。モスクワの革命政府に反抗的な人々であっても、外国人の横暴に我慢できないとあらば、ここは一致団結するしかないのである。ソ連各地から兵士が召集され、労農赤軍は「国軍」としてナチスドイツの前に立ち塞がることになるのである・・・という話である。
No.66839+アメリカ合衆国においてレンドリース法が成立したのは1941年3月11日のことである。大雑把に要約すると「合衆国大統領の判断によって特定の国家に武器を貸与あるいは売却できる」という法律である。当時の欧州の状況を見据えたものであるのは明白で、その目的は英国救援である。前年かろうじてナチスドイツの本土進攻を防いだものの、欧州における英国の劣勢は明らかであった。日本との戦争はまだ始まっていなかったが、アメリカ合衆国が本格的に第二次大戦に乗り出す意思を示したのである。この援助はソ連にも適用されている。独ソ戦の開始直後に接触が始まり、第一次協定が調印されたのは1941年10月1日である。大戦中には戦車を始めとする膨大な量の援助物資が米国からソ連に持ち込まれている。物資の輸送ルートは主に三つあって、北極海航路、ペルシア回廊、そして太平洋航路である。1941年12月8日には太平洋戦争が始まるが、それでもこの流れは止まることはなかった。日本にとってソ連は中立国である。米国の港湾で積み込まれた、米国製の兵器を満載したソ連船は、日本の鼻先をかすめて、滞りなくウラジオストク港に物資を搬入し続けたのである・・・という話である。