軍1@2019年11月ふたば保管庫 [戻る]

112397 B


03日19:28頃消えます ゴー・フォー・ブローク!

日系兵士・部隊スレ

55048 B
ベン・黒木さん
第二次世界大戦では志願してアメリカ陸軍航空隊に入隊、ルーマニアのプロエシティ油田爆撃など数々のミッションに爆撃機のクルーとして参加、規定の出撃回数に達するも更に志願して今度は太平洋戦線で従軍されています日系人ゆえの苦労も色々あったみたいですが、自分の父母の国への爆撃行ってのはいったいどういう気持ちだったんでしょうね…

>自分の父母の国への爆撃行ってのはいったいどういう気持ちだったん
>でしょうね…
戦国期だったか、ポルトガルだかの植民地での戦闘でどっちの勢力も日本人傭兵で、用兵側は「 今回は手抜き戦闘をされるから戦果は望めんな」って諦めてたらガチ戦闘をして用兵側ドン引きなんてエピソードがあるから、出自はともかく属する勢力の一員としてベストを尽くすのが 大和魂なんでしょう。


中朝韓あたりの、移民先でも出自の国への忠誠を持つ行動が目立つ民族と同じ漢字圏なのに不思議不思議。
※共産圏だったら親族を人質にってパターンも多かろうが。

165954 B
IJAの独立第14飛行団司令部に配備されて、ニューギニアで戦われた高田謹吾さんという
方の回想記にある話なんですが、命じられた任務というのが米軍の通信傍受・解析だったんだそうでして、「司令部ピストに毎日対空無線班と有線電話を担当して、その応対に目の廻る忙しさであった(略)しばらくして米国カルフォルニア大学卒と、ハワイ大学卒の2名の2世軍属下士官の配属があり、無線機3台を備えて本格的に敵無線電話の傍聴作業が開始された」…ものの、正直なトコロ「私がただ大阪外語を卒業したというだけで、英語は専門外にもかかわらず、この任務を命ぜられたのだが、初めて聞くヘッドホーンからの英語は全くチンプンカンプン」…だったんですとか

154976 B
そこで高田氏が頼りにしたのが、部下の日系2世さん達で、
「日本に忠誠を誓った2世、彼等から英語の会話を会得しよう、そして傍聴に少しでも役立てようと、通信所内の3名は、すべて英語で話すことと」…して、速やかな英語学習を企てたそうなんですが、「実施してから3日目に徳永(※飛行団)団長の耳に入った。敵性語だと云うので大変なお怒り、辯明も聞き入れられず中止」…となり、折角のいっぱい聞けていっぱい喋れる、隊内留学計画もお流れになってしまったんだそうで…そう、いつだって向上心に燃える若者の希望を挫くのは、理不尽な大人たちなんだ…!(純真な少年のような瞳で)

この部隊で欧州戦線戦って右腕だったか左腕失ったハワイ州選出のダニエルイノウエ議員もここ。最後は議会のナンバー3あたりまで上り詰め盛大な葬儀も執り行われた。現在ハワイの空港はこの人の名前に変わっている。将来就航予定のイージス艦にこの人の名前が付く予定

日本側にも「二世兵士」っていたのね

なんとなく、アメリカ側だけかと思っていた・・・

32155 B
逆に日本側で敵国側の血を引いた人でも
いい言い方では差別なく悪い言い方だと問答無用に引っ張っていきますね

83693 B
遡って
第一次世界大戦の日系カナダ兵

>中朝韓あたりの、移民先でも出自の国への忠誠を持つ行動が目立つ民族と
>同じ漢字圏なのに不思議不思議。
確かにもしも自分が日系二世で、米軍兵士として日本軍と戦う羽目になっても、
あまり後ろめたい気持ちは持たないような気がする。
両親に対しては申し訳ないような気がするとは思うが、自分が生まれ育った
アメリカのために戦うのは、アメリカ人として当然だと思うのではなかろうか。
もしやそんな風に考えるのはアジア系では珍しい部類に入るのだろうか?
言われてみれば他のアジア系民族は民族的母国に強い執着心があるように思う。
在日コリアンなんて本国人からは完全に外国人扱いされているのに、
一方的に本国人に同朋意識を持っているのを見ると「何でかな?」と思う。
また中国人(漢民族)は現在の国籍がどこであれ、出身地が同じだと同朋意識を
抱いたりするから、これはまたこれで日本人と違うように感じる。

>両親に対しては申し訳ないような気がするとは思うが、自分が生まれ育った
>アメリカのために戦うのは、アメリカ人として当然だと思うのではなかろうか。
本人たちはそう思ってても米政府がそう思わず欧州戦線行きだったよね
まあ同族同士で殺し合いにならずに済んだけど

戦国時代の武将は親子兄弟で敵味方に分かれたんだし
一度その国の旗の下で戦うと決めたら
思う存分戦うしかないと、実際戦ったこともないし
この先そんな状況になることもないだろう私は
思うのでありました

83173 B
>日本側にも「二世兵士」っていたのね
阿川弘之せンせいなんかも、戦中はIJNで敵信傍受と解析のオシゴトをなされておられたそうなんですが、やはり部隊ではアメリカ帰りの2世さんたちが活躍されていたそうでして「漢口の傍受通信隊にいたでしょう(略)電信の傍受トツートツートの方は日本人の兵隊がやっているけど、電話の傍受は2世でなきゃやれない」「二重国籍みたいになっている人がいまして、上官の顔を見て『オハヨ』なんていうのがいるんですよ。日本語がよくできないんだ」「オハイオかどっかの大学を出て、かわいそうだったけどね、下士官で来ていて、その連中が常時向うの電話を聞いているわけです」

78920 B
「航空機同士と航空基地同士、あるいは飛行機と基地の無線電話の傍受をやっているんで
すが(略)8月10日(※1945年)の晩に、中国にあるアメリカ空軍の基地と基地との電話要員の兵隊同士のむだ話ですよ、はっきりおぼえていますがね。2世の兵隊が1人変な顔をして紙きれ持って士官室に入ってきた」「われわれの仲間にも、山本中尉といって、アメリカの大学で勉強したのがいて、それがその係ですわ。山本君のところへ、こういう会話が入りましたと見せにきた。山本が変な顔をして、隊長に渡しましたよ」”Don't get excited ! Japan offered unconditional surrender.”『おい、びっくりするな、日本が無条件降伏を申し出たぞ(略)』というんですよ」…なんてコトもあったそうですヒアリングはやはり、ネイティブに任せるのが一番!ということなんでしょうかしらん

>戦国時代の武将は親子兄弟で敵味方に分かれたんだし
今は個人主義の時代だが昔は家の存続が第一
血筋の者がその家を存続させれば良いという考え
上杉家の様に家の存続の為には血筋すら軽視した
家もある 家柄とはそれ位大切なものだった

57743 B
吉田満氏の「戦艦大和の最期」の中に、中谷邦夫さんという通信科士官さんの話がある
んですが、曰く「魚雷集中のため、防水の完璧を誇る送受信室も浸水に潰ゆ。通信長以下、通信科員の過半をここに失う」「敵信班員中谷少尉も、敵信傍受の勤務のまま散華したるべし。2世出身者としてその去就を注目せられたる彼が最期、僚友に伍して見事なるものと推察せらる」「司令部通信科士官中、唯一の生還者渡辺少尉の証言によれば、通信室決壊の寸前まで、敵信捕捉、翻訳の作業は、淡々かつ的確に進められつつありしという」…とのことで、沈みゆく「大和」の中で、米軍の通信解析に当たられていたある2世士官さんについて書き残されておられましたり

91632 B
因みに中谷少尉の御母堂はアメリカにおられたようで、吉田氏らは終戦後
「われこれらの事実を遥か異国にある彼が母上に伝えた」…そうなんですが、やがて戻ってきた返書には『邦夫が最後まで、自分のポストにベストを盡して戦い、日本人として恥かしくない死を遂げてくれたということ、これ程うれしいことはございません』『邦夫戦死の報を聞いて、悲しみの余り三月も寝込んだ私共でしたが、邦夫最期の模様を知り、心から勇気附けられました。』『家族一同、邦夫を尊んで居ります』…とあったそうです例え息子さんがどちらの国を選んでも、絶対変わらないのは子を思う母心、ということなんでしょうかね…

>家柄とはそれ位大切なものだった
江戸期を通して直系で残ってる大名の方が少ないのでは?

また戦前までは割と普通の事だったみたいよ
旧制中学だった祖父が「優秀な生徒は途中で名前が変わることが多かった(養子に入る)」と語っていた

山本五十六の山本も長岡藩家老の山本家を継いだものだし
個人的に身近なところだと知り合いで近藤勇の近藤家を紆余曲折あって継いだ人がいる
その人も直接の血縁ではないよ

二世の神風特攻隊員とかもいたよね

医療技術も衛生環境も食料事情も現代より遥かに貧弱だった時代では子供は簡単に死ぬし、運良く成人出来たとして"家"を継がせる器を持つとは限らない
"家"を継ぐという事は一族郎党をも背負う頭にもなる訳で
"家"が滅ばぬ為には血筋に拘ってる余裕は無いんやな

>近藤勇の近藤家を紆余曲折あって継いだ人
近藤勇も近藤家に養子で入ったんじゃなかったっけ

>家"を継ぐという事は一族郎党をも背負う頭にもなる訳で
>"家"が滅ばぬ為には血筋に拘ってる余裕は無いんやな

まさに一所懸命だな。大陸が血縁一筋の価値観なら、
日本は血縁と共同体のミックスって感じかねぇ。

81648 B
欧州で戦った米国第100歩兵大隊B中隊所属の、アルバート・タカハシ=サンという方の回
想記によりますと、フランス戦線、ドイツ国境近くのブルイエルでの戦闘の際、「一日中、氷雨が降っていてずぶ濡れでした。疲れきっていて塹壕の中で仮眠をとっているとき、ムスビという声を聞いたような気がしたのですが、そのまま眠っていた」「また聞こえたのです。大きな声で、ムスビとチキンを一人ずつ取りにこいというのです」「夢じゃなかった。夜の十時ごろでした、あれはおいしかった、ニセイはコメを食べないと──」…なんて事があったそうですタカハシ=サンによれば、「B中隊の料理班は最高でした。実によくやってくれました。料理というのは士気を高めてくれるのです」

71265 B
…とのことで、
「かれらこそ真の英雄です」…とまで言い切られておられるんですが、やはり欧州で従軍されたフランク・シズト・オクサコ=サンが、自隊の有能な給食係陸曹について回想されておられるところによると”Our tour of duty on the front lines could be 2 or 3 weeks, but sometimes longer. Eating was one of our priorities. ””Sgt. Nii, our mess Sgt would trade powdered potatoes and other items for fresh vegetable and rice, so we ate good.”…とのことで、やはりおコメの手配に手腕を発揮して、部隊の士気意地に大いに貢献したことを紹介されておられましたりhttp://www.discovernikkei.org/en/resources/military/10197/やはり「米兵」さんだけに、「米」こそがパワーの源だったんでs・・・(

>powdered potatoes
一瞬火薬まみれのジャガイモかと思ってしまった

乾燥ジャガイモやね

しかし、フランスのお米っておにぎり作れるような短粒米あったのかね?

264084 B
東南アジアで対日情報戦任務に従事されていたカール・ヨネダ=サンの手記によると、よう
やくWW2が集結し、アメリカ本国に帰還した際、ニューヨークで日系の友人の家を訪れた際、「何が食べたいか」と聞かれた際には、真先に「白めしに漬物」…と答えたそうですwまた、アルバート・タカハシ=サン曰く、イタリア戦線では「ワラビをみつけてね。熱湯に入れてアク抜きをして小さく切り、肉と一緒に煮てシチューをつくった。食べたことがないというハワイ出身の小隊長がけげんな表情でみていた。すすめたら、いやな顔をしていたが、食べはじめると、おいしいといってよろこんでいたよ」…なんて事もあったそうですゴハンジャパーン!

333164 B
因みにこの時、ワラビを積む高橋さんらと離れて休息していた同大隊のヤング・オーク・キ
ム=サンの回想によると、「聞きなれない音がしたので出て行ってみると、2世が小川で、手榴弾を使って魚をとっていた(略)違法である」「そこへ、ライダー師団長がちかづいてきた。まずいことになったと思っていると(略)私のところへきて、訊いた」「かれらは野草を摘んでいるようだが、どんな植物かとたずねた(略)ところで、といって、少し間をおいてから、コメや日系兵の足に合う小さい靴は十分にあるのか、と心配していた」「手榴弾のことはしっていたはずだが、一言もふれずに去っていった」…とのことハクジンの師団長さんも、ニセイの隊員さん達にはコメが欠かせないことを、十分承知していたということみたいなんですが、もしかしてコレ、野草で飢えをしのぐくらい、ウチの部下は飢えてるのか?と心配したんjy…(

白人部隊の犠牲にされたとか、休暇で帰ったらジャップ扱いされてタクシーも
乗れなかったとかひどい扱いされた話が多いから、こういう話はほっとするね

まあ、多くはなかったんだろうけど・・・

>「白めしに漬物」
自分は壁があった頃の西ドイツで暮らしていた事あるんだけど
ひたすら「日本」に飢えていたのを覚えている

一週間遅れで届く日本の新聞にかじりつき、
テレビが日本のニュースを流して日本語が聞こえると狂喜していた

日本食も、値段が高い日本人向け店は早々に見切って
韓国人や中国人向けのアジア系ショップで安いコメや調味料を調達するようになった

理屈じゃないんだよね
異国の土地でメンタル削られる日常を送っていると
言葉が普通に通じる故郷の有難さを和食を通じて再確認して癒されるんですわ

戦地の兵隊さんなら尚更、食で癒されたい衝動は強いだろね

355488 B
欧州戦線で勇名を馳せた日系人部隊が編成・訓練された、ミシシッピ州シェルビー基地近
傍のある少商店主の、アール・フィンチ=サンという方がおられたそうなんですが、日々猛訓練に励む2世兵士さん達を、週末自宅に招いて母親手作りの南部料理で歓待したり、経営していたボウリング場で遊ばせてあげたり、出陣前には隣州の日系人収容所から日系人女性を招いて、壮行ダンスパーティーを基地内で開くのに尽力するなどなにかと親切で、ニセイさん達にも大層慕われておられたんだそうで更に大勢のニセイさん達をもてなすのに自宅だけでは手狭だと、350エーカーの牧場を購入、BBQやロデオ大会などのイベントを開いたほか、醤油、タケノコ、豆腐、などの食材をシカゴやニューヨークの中華料理店から手に入れて提供し、ハワイ出身者の為に中南米産のマンゴーやパイナップルも輸入、時には屠殺した牧場の牛で、SUKIYAKIパーティーなんてこともしておられたそうです…w

98575 B
戦中のフィンチ=サンの活動は基地周辺での支援活動に留まらず、2世の家族友人との連
絡業務、負傷して帰国する兵士さん達の見舞いや慰労、時には戦死した兵士の遺言執行役…と多岐に亘る活動を精力的にこなし、いつしかニセイさんらから尊敬の意を込めて「ワンマンUSO(※…米国慰問協会)」…と呼ばれるようになったんですとか因みに、やはりシェルビー基地で訓練を受けた、ダニエル・K・イノウエ=サンが、当時初めてフィンチ=サンに出会った時のことを語られているんですが、基地への道中では“Ringing in the men’s ears were epithets they had heard along the way — dirty Jap”…という有様だったそうなんですが、やがて現地の駅でイノウエ=サンらの眼は、群衆の後ろに居る、一人のハクジン男性に釘付けになったそうです“He was standing up and waving his hat and shouting, ‘Welcome, welcome.’”圧倒的に日系敵視の当時のフインキの中で、こういう良き出会いが2世兵士さん達にもあったというのは、少し救われるハナシではありますですねえ

いい話だなー、と思って調べてみたらフィンチ=サンは
戦後に442ボーイズの故郷であるハワイに移住しているんだね
で、復員した日系人たちに歓迎されながら余生を送ったそうだ

フィンチ=サンを語る映像見つけた
https://www.youtube.com/watch?time_continue=87&v=gR8cZbspOuc
http://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/287/

当時の日系人への風当たりの強さを考えたら、ここまでしてくれる
フィンチ=サンの献身は驚嘆に値するわ

>日本側にも「二世兵士」っていたのね
二世ではなく、アメリカ生まれの日米ハーフの日本兵もいた

父親が日本の外交官で、シカゴで生まれた来栖良技術大尉は
俳優にスカウトされるほどのハンサムで、なおかつ航空工学を専修したインテリという
チートみたいな御方

徴兵された後、テストパイロット兼任の技術者として技術少尉に着任
大戦末期には疾風で迎撃戦にも参加していたそうだ

基地帰投直後に、発進する同僚機に撥ねられて殉職
こんな最期はあんまりだ、という事で、公的には「戦闘中に負傷、帰投後に死亡」と
いう扱いにされて大々的に葬儀が執り行われたそうだから
相当に慕われていたぽいね

日系人部隊の第442連隊は最初はどの師団も編入したがらなかったが
実戦での戦闘能力の高さが分ってから奪い合いになったんだっけ?

最前線で戦った第442連隊が所属する師団が休息期間に入った時に
代わりに最前線に立つ師団に引き抜かれて休み無く戦う羽目になったとか

>日系人部隊の第442連隊は最初はどの師団も編入したがらなかったが
>実戦での戦闘能力の高さが分ってから奪い合いになったんだっけ?
>最前線で戦った第442連隊が所属する師団が休息期間に入った時に
>代わりに最前線に立つ師団に引き抜かれて休み無く戦う羽目になったとか
最初はそうでした。出征前に演習や査察で最高評価だったのに。編入したがらなかったそう。
実戦で他が撤退する中、戦い続けたり。塹壕で持ち場を離れないでいた2世部隊が認められるまでですが。

304257 B
日系人部隊がいよいよ戦場に赴き、1943年秋にイタリア戦線で初めて実戦を経験した際の
ことだそうなんですが、その様子を伝える「LIFE」誌に、戦闘で負傷・失明した2世兵士さんの写真が掲載されたのを見たフィンチ=サン、早速彼に新しい「眼」を用意すべく、陸軍当局に連絡をとったそうですこの失明した負傷兵さん、ハワイ生まれのヨシナオ・オーミヤ=サンが、ニュージャージー州のモリスタウンで出会った新しい彼の「眼」は、”オードリー”という名のジャーマンシェパード犬で、折から進められていた傷痍軍人さんの為の、盲導犬育成プログラムの一つによって養成されていたものであったんですとか当時のニュージャージー州には世界最古の盲導犬協会である”THE SEEING EYE”の本拠があり、軍に協力して活動していたそうなんですが、ヨシナオ=サンもオードリー=サンと共に、その施設で6週間のトレーニングを経て、無事パートナーを組んだ一組だったんだそうで

252343 B
ヨシナオ=サンとオードリー嬢の関係はとても良好で、氏曰く
“She was cute,intelligent and compassionate,”“She was so protective.IfIbumped into something,she'd slink on her belly and beashamed. She slept by my feet.”…だったものの、不幸にもある日オードリー嬢は交通事故で死亡、再びニュージャージーに戻ったヨシナオ=サンは新たな盲導犬と出会い、同じく「オードリー」と名付けて暮らし始めるんですが、心の中にはやはり先代の面影が常にあったんだそうでもっとも、この2代目”オードリー”も実によくヨシナオ=サンを支えてくれたそうで、10年程の同居生活を経て、2代目オードリー嬢がこの世を去った後は、最早これ以上の忠実な4本足の友人との別離は耐えがたいとして、新たな盲導犬を求めることは止めたそうです…ユウジョウ!

104333 B
話は違いますが当時日系人に救いの手をさしのべた人がいます。コロラド州知事のラルフカーという人です。弁護士でもあり強制収容などに強い嫌悪感を抱いていたそうです。日系人を受け入れることに地元も含めて大反発が起きて暴徒が押しかけたり脅迫が殺到したが信念を曲げなかった。これが原因かは分からないが落選してしまう。戦後の50年代に病気が原因で死去している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC

>No.1287680
第442連隊より先行して出陣した第100歩兵大隊は、どの師団も配下に加える事を嫌がったため仕方なく独立戦隊として行動するハメになった
そして初陣の相手がドイツ地上部隊で最強と言われたドイツ空軍第1降下猟兵師団だったりする
それを撃ち破って以降、日系人部隊を編入したいって師団が続出した

32504 B
米国で生まれた後、幼少期をいったん日本で過ごした所謂帰米2世の米軍兵士で、東・盛勇
・フランク=サンという方がいらっしゃるんですが、この方は父方の実家のある沖縄名護で中学を出た後1937年に渡米、41年に徴兵されて米陸軍に入隊されているんですが、日米開戦後に陸軍情報部語学校を経て、語学兵として太平洋戦線で従軍されたんだそうで氏曰く「10人の沖縄系によるグループができました。サイパンが陥落したころからつぎは台湾か沖縄だろうと思い(略)沖縄の方言が理解できるという条件で、沖縄出身者によるチームを作ることを願い出て許可されたのです。沖縄上陸(45年4月1日)の6ヵ月くらい前でした」「ニュース映画でサイパンの人たちが断崖から飛び下りるのを見ていました」

111522 B
「サイパンには沖縄の人が圧倒的に多く、沖縄ではそういう悲劇を未然に防ぐのに行こう
やと言うていたのです」…とのことなんですが、当時東=サンの御家族は母親は戦前に亡くなられ、父親は沖縄、兄守行さんはIJN航空兵で、レイテ沖海戦で母艦を沈められフィリピン山中で籠城中、一つ下の弟は米国で日系人収容所におり、その下の二人の弟さんはそれぞれ日本陸海軍人として日本側で従軍中、更に年少の中学生の弟二人と妹一人は沖縄におり…という状況であったんだそうで、更にコレから自身幼少期を過ごし、家族や知り合いの住む沖縄がいよいよ戦場となる…という時期であったわけですから、氏の心中はやはり穏やかならざるものであったんじゃあないでしょうか

126875 B
幸い、沖縄戦が概ね集結した6月22日ごろ、名護市付近に進駐していた部隊に同行してい
た東=サンは山中に避難していた父親ら家族と無事再会を果たし、劇的な対面は全米に報道されたそうなんですが、その後8月15日の終戦後は沖縄各地で残留日本兵さん方の収容活動等を経たのち、再志願して1年半軍隊に留まり、その後は軍属として約3年間、沖縄で軍政府と民政府の連絡会の通訳等を務めたそうです米国に「帰国」してからも、沖縄への物資支援等の仕事に就いておられたそうなんですが、当時の日系人社会の方々なら、程度の差こそあれ、皆さん同じような経験をされておられるんでしょうねえ…

>第442連隊より先行して出陣した第100歩兵大隊
自己レスだが
米軍は大隊に若いナンバーを与える
第1・第2・第3…って感じで
3桁ナンバーの時点で差別されている状態なんだけど逆に言うと凄く目立つ
「また第100大隊が最も早く敵前線を突破した!」っと
これが第1大隊だったら「ドコの第1大隊だよ?」ってなるから差別で付けられた3桁ナンバーが結果論では良い方向に作用した

88638 B
>幸い、沖縄戦が概ね集結した6月22日ごろ、名護市付近に進駐していた部隊に同行していた東=サンは山中に避難していた父親ら家族と無事再会を果たし、
連続ドラマにしよう。さて、日本国内で制作できそうな会社は....

>第100歩兵大隊
ハワイ準州警備隊(今のハワイ州兵)なんですが。元からあった訳でなく。それまでいた日系人を、まとめて編成。IJNの空襲の後で反乱に備えたとも。

第442連隊と第100歩兵大隊は今も存続している
名誉ある連隊と大隊を潰すなって事で

いまの第442連隊なんて配下部隊が第100歩兵大隊のみなので
無理やり存続させているのが分る

210441 B
日系語学兵さんを主人公とした小説に「二つの祖国」というのがありまして、数回TVドラ
マ化もされているそうなんですが、その登場人物のモデルの一人とされているハリー・K・フクハラ=サンは、米国で産まれた後13歳の時に両親の郷里である広島に戻り、5年後再び渡米されているんですが、数年後に日米戦が始まり収容所送りとなったところに「キャンプに陸軍からリクルートが来」て、ミネソタ州の陸軍情報部(MIS)語学校の3期生となったんだそうで卒業後、オーストラリアのブリスベーンに送られたフクハラ=サンはマッカーサ将軍の司令部で翻訳通訳小隊に配属され、43年6月から45年8月まで太平洋戦線で、日本軍捕虜の通訳や訊問、鹵獲文書の翻訳などに当たられていたそうなんですが、43年9月のこと、「広島にいた頃、近所の友だちだった男が捕虜になっていたのです。彼は僕がアメリカに帰ってくる前に志願して入隊していたので、僕がアメリカに帰ったことを知りませんでした」

160444 B
「彼は『日本に帰りたくない』と言ってました。捕虜になるのを恥と信じていたのでしょう」
…なんてことがあったそうで、「この再会と私の兄弟3人が日本軍に入っていた事実をひとつにして、山崎豊子さんが”二つの祖国”を書かれたのです。私は兄が日本陸軍に入隊したのは知っていましたが、弟たちのことは知らなかったのです」…なんて語られておられましたり終戦後、フクハラ=サンは日本に進駐すると、ジープに衣類食糧を積んで、「実家」のある広島へ向ったそうなんですが、「原爆投下から1ヶ月後の広島は、それはひどい状態でした」

76114 B
「わが家はこの辺りと思われる壊れかかった家の中に、やせ衰えた病人のような女性が二人
いました。母とおばでした」「7年ぶりに会う息子がアメリカ兵の軍服を着ていたのですからどんなに母が驚いたことか…。僕も母も胸がいっぱいになりました。この時、兄が原爆で死んだこと、弟二人が徴兵されたけど生きていることを知ったのです」…とのことその後フクハラ=サンはCIC(陸軍防諜部隊)の一員として、長く米陸軍に務めて大佐で退役、1990年にはブッシュ米大統領(当時)から長年の航跡を讃えられて大統領賞を受け、93年にはアリゾナ州ホーチューロ基地の米軍情報部隊の「殿堂入り」の名誉も受けておられるそうでで、他の多くの日系人兵士さん達と同様に、収容所の鉄条網の中から自身の必死の努力によって、遂に「祖国」に確固たる地位勝ち取った一人であった、ということみたいですなあ

80486 B
市丸少将のルーズベルトへの手紙を英訳させたのも日本側で戦った日系兵士だったな
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越してこれを村上治重大尉に渡した。村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」(ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。)

50075 B
本文無し


78340 B
文春新書の「日本兵捕虜は何をしゃべったか」という本でも、米軍の2世語学兵さんの活
動について色々触れられているんですが、その中のスナオ・イシオ=サンという情報士官さんが、レイテ島攻略作戦に従事した時の様子というのは「レイテ島(略)にちょうど上陸せんとした時、爆撃を受け、二人の2世仲間が負傷した」「レイテ作戦が進展するにつれ、日本軍は(略)狂気のように戦力増強を図るようになった。」「敵(※日本軍)の絶望ぶりが見てとれたのは、夜間に落下傘部隊をレイテのいくつかの飛行場に投入するといった無茶な戦術からであった。ある飛行場では、いくつかのパラシュートが開かずに落下した。」「彼(※スナオ=サン)は飛行場へと急いだが、それは押しつぶされた血だらけの兵士から文書なら何でも鹵獲するという残酷な任務を行なう為であった」「テントが彼のために用意されていた。彼は朝まで自分が奪った文書を翻訳した」

113101 B
「落下傘が続いて落ちてくるのではないかと不安になり、外の音声が十倍も増幅されたよ
うに感じるほどの恐怖を覚えた。実際、彼が翻訳する作戦命令書では、翌日の次の落下攻撃(ママ)を指示していたのだ。だが幸いにも、これは起らなかった」…という、凄絶なものであったそうですこの時スナオ=サンが直面した日本軍の飛行場への降下攻撃というのは、前後の描写からして、IJA空挺部隊である挺進第3連隊によるブラウエン飛行場攻撃と思われるんですが、同戦闘での落下傘の「不開傘」については日本側にも記録がありまして、原書房の「高千穂降下部隊」から該当部分を引用させて頂きますと「ある1機は、降下を始めるとすぐに、自動索環をかけるワイヤーが切断した。」「平時ならば胸に予備傘をつけているが、このときは重量を減ずるため(略)持っていない」

84893 B
「機上機関係が慌てて降下を止めさせようとしたが、落下傘兵たちは、不開傘を承知の上で、
次々と対空弾幕の中に飛び込んで行った」「無意味な死と言う勿れ。そこには敵撃滅の一念以外何物もなく、文字通り肉弾を敵陣に叩きつけたのである」…とのことこの攻撃では実際、連隊長以下の第1陣に続いて、後詰めの部隊の降下が予定されていましたから、スナオ=サンの遺体からの鹵獲文書の翻訳は正しかったわけなんですが、結局輸送機の被害、悪天候などの為、行われずに終っているんだそうで仮に第2次降下が行われていたら、あるいはスナオ=サンもその襲撃を受ける羽目になっていたかも知れませんが、ともあれ墜死体のポケットを漁るスナオ=サンも、必死の降下に身を躍らせた空挺隊員さん達もおそらくは同年代の若者同士だったはずで、お互い祖国の為に必死だったとは言え、色々切ない話ではありますですねえ…

高千穂隊の後続、挺進第四連隊500名はレイテ西岸のバレンシアに降下したからね。
第三連隊でブラウエン二次降下隊として追及した機体も2、3機あったが、雲がかかっていて降下できる状態でないのに、レイテ上空と知って機付が止めるのも聞かず雲中に降下していった一隊もあったとか。

中には航法ミスで未知の山中に落された隊(大村隊だったか)もあり、その時も不開傘が出た記録があるね。
精鋭の挺進連隊らしく、残存員はジャングルでゲリラを蹴散らして後日、本隊となんとか合流したみたいだけど。

第三連隊の不開傘は新原隊長機だといわれていて、挺進輸送隊が帰還後にすぐ調査が行われて、輸送機の自動開傘用ワイヤーの取付強化が全機に施されたけど、それを担当したのは三菱航空機の東条さん。
首相の子息。

文字どおりゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)!って話だけど・・・
悲しいね

習志野の空挺館に空挺部隊の歴史が展示されているけど
華々しい成功例はパレンバンくらいなんだよね

その後は空挺降下の機会が無く延々と待機を強いられていたので
末期に無茶な特攻空挺が立案されても「これで戦える」とばかりに
喜んで出撃していったそうな

高千穂部隊はブラウエン南北飛行場も一昼夜は確保したんだけど、補給もなく包囲された状況ではね。
あとの半年間は飢餓に苦しめられた撤退戦。
士気旺盛で持ち前の練度と機関短銃などを活用して局所的な強みは発揮しているが、多勢に無勢。

アメリカ101空挺師団の第3旅団は、戦後に愛称をラッカサンズとしているけど、前身部隊はレイテのブラウエン飛行場周辺で日本挺進連隊と戦闘して、その精強さに感銘を受けたというエピソードがあったな。
レイテのパープルハート丘陵での戦いぶりが凄かったとあったが、おそらくはブラウエン飛行場から撤退して16師団や26師団と山中で合同し、殿を務めていたあたりかな。

挺進第三連隊と第四連隊は連隊長まで戦死して壊滅
実戦の機会を逸した第一連隊は特攻へ回され
パレンバン後の第二連隊は新田原で身動き出来ず
米軍側も実情は把握していたんだろうな

ちょっと前に渡辺謙が出演で映像化って話聞いたんだけど流れたの?それともデマ?

挺進連隊絡みでいま映画化か〜
硫黄島のような万人受けする作りにするのが難しいのではないかと。

戦中の空の神兵はともかく、戦後も鶴田浩二が出ていたパレンバン降下作戦の劇映画があるにはあったけどなぁ…
C46から降下してますが…

141063 B
フィリピンで1945年2月のコレヒドール島要塞奪還作戦に参加したハリー・アクネ=サンに
よると、同島に降下する第503空挺歩兵連隊の指揮官さんに要請されて、借り物のライフルを手に同行、産まれて初めてのパラシュート降下は上手く行ったものの、降り立った先でふと気がついてみると、周り中をダース単位の数の、疑心暗鬼の眼でライフルを構える米兵さんたちに囲まれており、危うく撃たれそうになって”Oh my God !”…なんてコトもあったんだそうでまた、これは東南アジア、ビルマ戦線での事だそうなんですが、当時日本軍と戦っていた米軍部隊の一つに、第5307混成連隊という部隊が有りまして、密林内の遊撃戦の為に、トリニダードのゲリラ訓練部隊、ガダルカナルやニューギニアでの実戦経験者などから志願兵を募って編成され、優秀な装備を支給された精強な部隊であったそうなんですが、その中には14名の日系2世からなる、語学兵チームも含まれていたんですとか

459162 B
この方々は主に情報要員として、鹵獲文書の調査や通信の盗聴、捕虜の訊問等に当たり、
目覚ましい活躍をされておられるそうなんですが、中でも有名なのがカルフォルニア生まれのロイ・マツモト=サンで、夜間などこっそり日本軍陣地の陣地近くまで潜入しては、聞こえ漏れてくる日本側将兵さんの会話に耳を澄ませていたそうなんですが、ある晩、翌早朝に米軍陣地への奇襲を計画していることを聞きつけたんだそうです早速米側ではマツモト=サンのもたらした情報に基き待ち伏せの態勢を整え、予想通り来襲してきた日本側の第一陣を撃破するんですが、その戦闘中、日本側の後続部隊が物陰に潜んでいるのに気付いたマツモト=サンが、塹壕から飛び出して両軍が戦火を交える中間に進出し、「突撃っ!すすめっ!!」…と完璧なイントネーションの日本語でニセ命令を叫ぶと、日本兵さん達は反射的に、米軍の防御火網の目前へと飛び出していったんですとか

107638 B
マツモト=サンは中学の頃一回日本で教育を受け、その後帰米してからはカルフォルニア
で日本の食材を扱う食料品店で働いておられまして、その際各地から来店する日系人顧客さん達と触れ合う中で、日本の各地方の方言にも馴染みとなっており、後の語学兵時代、随分と役に立ったそうなんですが、一方で両親と4人の兄弟、2人の姉妹は戦前に日本の広島へと戻ったままで、戦中原爆投下のニュースを聞いた時には、家族はもう全滅してしまったものと思っておられたんそうでところが、終戦後に中国で訊問していた日本兵捕虜さんの中に、たまたま広島出身の従兄弟がいるのを見つけたマツモト=サンは、彼の口から家族が原爆投下前に郊外に疎開していたことを聞かされたんだそうで、その後日本に進駐した際、徴兵されていた兄弟二人を含めた全員と、無事再開を果されたそうです…

42610 B
一ノ瀬俊也氏の「卑怯な日本軍」(題名は刺激的ですけれど、内容は第2次大戦中のアメリカの
対日戦闘マニュアルの紹介がメイン)には、日本軍の方が戦場で英語の「ニセ命令」を使っってきた事例も紹介されていましたねこっちももしかしたら、日本軍側の二世兵士によるものだったのかも…?

夜戦の混乱の中、興奮した状態で違和感のない言葉で言われたらわかんない罠

引っかかっちゃった人はお気の毒だけど・・・

志摩艦隊乗組の二世がスリガオ海峡夜戦の時に
米雷撃機隊に偽電を出して引き返させた話もあったね

本土防空戦でも無線で日本側が「もっと低く飛べ(英語)」とか偽の指示出したりしてたとか
逆に米軍側も「もっと高く飛べ(日本語)」とかやり返したり

508007 B
容姿は日本人そのもので、日本人の習慣や言語に精通する日系2世兵士を戦友に持つことは、
第5307混成連隊にとって非常に強みになったわけなんですが、その一方で偶にはそれが裏目に出てしまうこともないではなかったそうです歴史作家の児島襄せンせいの著作で紹介されているエピソードなんですが、ある時同連隊の中隊の一つが、ビルマで前線のパトロール中、一団の東洋人兵士に遭遇したんだそうですわ、ジャップか?!と中隊に緊張が走ったものの、近づいてくる相手は敵意どころかニコニコと笑いながら、オジギをしてアイサツしてきたんですとか「ドーモ、GI=サン。友軍!実際友軍です!!」(※一部脚色)

1382373 B
そう言えば、この戦線では日系2世の部隊も活動してたんだっけな…と思い当たった米兵サン
たちが、ホッとひと安心しながら「ドーモ、ニセイ=サン。調子はどうd…」…とアイサツを返そうとした、次の瞬間!「くたばれ、ヤンキー=サンッ!(BRATATATATATATATATA!!!!!!)」「ア…アバーーーッ!?」「グワーーーーッ!?!?!?」突如豹変した「2世部隊」は散開すると、容赦なく米軍めがけて銃火を浴びせて来たそうですそう!なんと彼らの正体は日本兵だったのだ!!なんというコウミョウかつヒレツなアンブッシュであることか!!!(棒)…まあ、逆から考えると、もしかしたら日本側に米側の日系兵士投入を知って、それを逆手に取った部隊が有ったという話…なのかも知れませんですねえ…?

太平洋戦線だと語学兵として通訳も兼ねてライフル・マンではないけれど前線に配属されて
日本軍から狙われてかなり死傷したとか
日本軍側から存在がバレてたと書かれてたね

捕まったら多分酷い目にあったろうし・・・
まあ、当然覚悟の上ではあったんだろうけれど

25598 B
第5307混成連隊に所属して戦われた14名の日系2世兵士さん達は、幸い1名の戦死者も出すこ
となく戦争を終えられているんですが、ただ一人、彼らの隊長だったウィリアム・アルフレッド・ラフィン=サンのみは、1944年5月18日、ミートキーナ飛行場付近で”K.I.A. ”となっておられるんですとかウィリアム=サンの父親のトーマス・ラフィン=サンは、大規模修理のために横浜港に寄港したアメリカ船の船員だったそうなんですが、そこで出会った日本人女性に一目ぼれしてそのまま日本に残り、二人の間には7人もの子供が生まれたそうです1902年11月10日に産まれたウィリアム=サンもその一人だったわけなんですが、長じた氏の勤め先は、日本進出の為横浜に工場を構えた米国フォード自動車社であったりしまして、言わば戦前の、まだ日米間が平和な時代の申し子みたいなヒトだったみたいですねえ

1046968 B
しかしながら1941年に日米が戦端を開くと、ウィリアム=サンは逮捕・拘留され、1942年6月
25日に横浜を出た最後の日米交換船(「浅間丸」)により米国に渡ったそうなんですが、そこで米陸軍に入隊、日本語能力を買われたものか、情報将校として短期間の訓練を受けた後、大尉の階級を与えられ、日系兵士チームの長としてビルマの第5307混成連隊に派遣されたそうです以後氏はジャングルの中で、ニセイさんたちを率いてゲリラ戦を戦うわけなんですが、先述のように1944年5月18日、既に連合軍側に占拠されていたミートキーナ飛行場付近で、便乗していた非武装のL-1観測機が「ゼロ」に撃墜されため、戦死したと記録されておりますこの氏の乗機を撃墜した日本機については、梅本弘せンせいの「ビルマ航空戦」にそれらしき記述が有りまして、該当部分を引用させて頂くと「5月18日、ミートキーナ奇襲部隊は、204戦隊(※1式戦装備)の相沢戦隊長以下6機、全機『タ』弾装備(略)滑走路北側には多数の在地機が並び、今しも輸送機が離陸中であった」

124020 B
「相沢戦隊長はただちに翼を振って、僚機に攻撃を命じた(略)相澤少佐は『タ』弾投下後、
連絡機1機を撃墜」「204戦隊は滑走中のDC3を1機撃墜、炎上させ、連絡機1機(略)の戦果を報じた」…とのことで、この「連絡機1機」というのが、どうやらウィリアム=サンの乗機だったということみたいですなあ因みに204戦隊は後に比島戦線に移動して、空中勤務者の半数以上と機材の殆んどを消耗して内地に帰還するんですが、相沢戦隊長はその苦闘を戦い抜いて生還、昭和天皇に単独拝謁の栄誉を受けておられるそうですたまたまそんな手練れに目を付けられたのが運の尽き、ということだったみたいなんですが、相沢氏にしても、まさか眼の前のちっぽけな連絡機に乗っているのが、日米混血でかつ米軍特殊作戦チームの長だなんて、夢にも思わなかったでしょうねえ…

464334 B
同じ民族同士の戦いって言うといかにも悲劇的なイメージがあるけれど、そもそも
アメリカが最大の戦死者を出した戦争は内戦である南北戦争だったし、第2次世界大戦の後もそれこそ朝鮮戦争、ベトナム戦争と世界のあちこちで同じ民族同士の戦争なんて嫌になるくらい続くんだよね

56272 B
さらに言えばアメリカは国の成り立ちからして移民が集まって出来上がった国なわけだし、
どこか外国に行けば必ずそこをルーツにする兵隊がいて、下手すれば親戚家族友人と戦場で鉢合わせするなんてのは、むしろ当然だったのかもなあ

日本でも戦国時代などそんな話ばかりだね。
同族間の裏切りとか日常茶飯事

ウィリアム・パトリック・ヒトラー…

>夜戦の混乱の中、興奮した状態で違和感のない言葉で言われたらわかんない罠
>引っかかっちゃった人はお気の毒だけど・・・
硫黄島では日本側がやり返している
米兵は負傷すると「衛生兵」と叫んで後方待機の衛生兵が同じく「衛生兵」と叫んでから負傷兵の元へ向かう
叫び返さなかった他の衛生兵はその場で待機して次の負傷兵の叫びを待つ
これに気付いた日本軍が負傷兵の「衛生兵」の叫びに対して「衛生兵」と叫び返す事により本物の米軍衛生兵は動かず負傷兵がとり残される事になった
他には米軍の軍服を着た日本兵が「衛生兵」と叫び負傷兵のもとへ向かい負傷兵をナイフで殺す事も多発したので米軍が恐慌状態になった

799882 B
WW2中、やはりビルマで米軍情報部の語学兵として戦われていたヘンリー・桑原=サンの
手記によると、戦争終結後は日本に進駐して、GHQの業務に携わった後は、大阪駐屯の第25歩兵師団に配属されていたそうなんですが、そこで朝鮮戦争が勃発したんだそうでして「第25歩兵師団が韓国へ急行した。私は(略)第27歩兵連隊に配属され、2世の下士官2名と共に現地での情報収集と北鮮捕虜の訊問に当たる任務を帯びていた」…そうなんですが、「私たちの仕事が捕虜を相手の仕事であることを知っている連隊のGIたちは、『君たち2世は朝鮮語が話せるのか』と顔を寄せて来た。だが、われわれが朝鮮語など話せないのを知って腰を抜かさんばかりに驚いた」…なんて状況だったんですとか

375100 B
もっとも幸い、まだ多くの朝鮮人が日本語を介する時代だけに
「わたしははじめて韓国人と話をした。最初、日本語で話しかけられて驚いてしまったらしい。われわれがアメリカ軍に従軍している日本軍人だとも思ったようである」「第2次世界大戦が終わってから、彼らは日本語を使わないのだという(略)われわれの使う日本語が、昔、日本人が使っていた日本語よりも丁寧なのを知って喜んだ」「キム中尉という韓国軍人を紹介された(略)英語も堪能で、日本語の知識も深かった」…とのことで、時に英語⇔日本語⇔朝鮮語三角通訳を駆使して、なんとか任務をこなされておられたようです

127365 B
ただし、激戦地を転戦する任務は危険も大きく、
「連隊の情報偵察小隊に敵情偵察の命令が下り、数台のジープに分乗して小さな村に差しかかった時、猛烈な銃火を浴びせられた」「最初の銃火で2人の軍曹が戦死し、数名のGIが傷ついた。戦死した軍曹の1人は、あのヨーロッパ戦線で勇名をとどろかせた442連隊の生き残りの兵士であった。こうして最初の血が、第27歩兵連隊で流されたのである」…とのことで、基本後方勤務の情報士官だったヘンリー=サン自身、部隊本部を奇襲してきた北朝鮮部隊と自ら銃を取って戦わざるをえなかったこともあったそうです

朝鮮戦争にも日系兵士が参加しているのね・・・
初めて知ったわ

162048 B
朝鮮戦争に従軍された日系兵士さん達の総数はおよそ5000名以上、うち240名以上の戦死
者を出しているそうなんですが、最前線で戦われたニセイさんの一人でヒロシ・"ハーシー" ・ミヤムラ=サンという方も、やはりかつてはWW2中志願して、「442連隊」の1員となった1人であったんだそうでもっとも、ヒロシ=サンの場合、WW2では実戦参加する機会はなかったようなんですが、機関銃分隊長として第3歩兵師団第7連隊に所属して従軍された朝鮮戦争では、1951年4月24日、ソウル近郊の戦闘で「銃剣を用いた近接戦闘で敵兵10名を斃し、撤退する部下と味方部隊を援護する為、負傷しつつも踏みとどまり、機関銃を撃ち続け更に50名を死傷させる」…活躍ぶりで、同戦闘の後北鮮側の捕虜になるも、2年以上の厳しい抑留生活を耐え抜き、無事帰国されておられるそうです

72573 B
また、第2歩兵師団第9連隊所属だったジーン・タカハシ=サンなども、やはり勇敢な後衛
戦闘の果てに、北朝鮮を支援する中国義勇軍(実質正規軍だったわけですが)の捕虜となり、WW2中抑留された日系人収容所に続いて、2回目の収容所送りになってしまったそうなんですが、その際彼を訊問した中国人将校サンには、当初「日本人」が米軍の将校になっているはずがない!「日本軍」が参戦したんだな!!…と決めつけられて、自分が間違いなく「アメリカ人」であることを飲み込ませるのに苦労した、なんてコトもあったそうですwなお、その後ジーン=サンは護送される途中で隙を見て逃走に成功、今度は「韓国風」の服装に変装して南下する難民の群れに紛れ込み、ついに自分の隊に復帰、戦闘任務に戻るんですが、そこで敵の銃火により負傷して治療中、戦争終結を迎えたんですとか

1072959 B
一方、林英一氏の「残留日本兵(中公新書)」という本には、WW2終結の際、請われて現地の
中国(共産党)軍入りし、その後の国共内戦に参加した日本軍人さんの例が幾つか紹介されているんですが、中には「1947年に中国人と日本人の混成部隊の班長に抜擢され(略)転戦した。1950年、朝鮮戦争支援のための中国人民義勇軍に編入されたが、日本人兵士の参戦は国際問題になるとの理由で取りやめとなる」…た等、朝鮮戦争に関わるエピソードもいくつか紹介されています基本、「国際問題」を恐れる中国側の方針で実戦参加は取りやめになっているみたいなんですが、もしかしたらかつてのWW2における太平洋戦線のように、またもや日系2世さんたちと、「日本人」が戦火を交える戦場になっていたのかもしれないですなあ

>キム中尉
無責任艦長タイラーの部下だった人か。なつかしいなぁ。

39520 B
朝鮮戦争中の韓国軍が戦えた理由の一つが「日本軍の経験者が多く加わっていた」というのが有り。
クネクネさんの父上も帝国陸軍士官学校出てます。

26514 B
本物の韓国の英雄。白 善燁大将も満洲で間島特設隊にいたという。なのでベテランの士官とか下士官には。日本語の教育を受けていたので。英語より日本語のうまい軍人は多かったんです。
米軍は通訳として朝鮮語か日本語の出来る人が必要だった。

71062 B
第442連隊戦闘団第100歩兵大隊にいた只一人の朝鮮人士官だったヨンオク・キム大佐。
第100歩兵大隊への配属は手違いだったとも言われますが「ここには日本人も朝鮮人もいません。我々は皆アメリカ人であり、同じ目標の為に戦っているのです」と小隊長になり。最前線で活躍。

42732 B
>第442連隊戦闘団第100歩兵大隊にいた只一人の朝鮮人士官だったヨンオク・キム大佐。
朝鮮戦争で第7歩兵師団傘下の第31歩兵連隊に配属されましたが。韓国系兵士や僅かでも朝鮮語を解すると通訳にされると聞いて「ロサンゼルス出身で朝鮮語は全くわかりません」と言っていた。(本当は1世の両親と話していた)活躍して同連隊の第1大隊長に

>林英一氏の「残留日本兵(中公新書)」という本
著者が入門書みたいなものとか後書きで書かれてますけど、
残留理由が判明した人の動機の分類とか巻末の参考文献一覧とか
軍板の人にも興味深そうな中身ですよね
敗戦で打ち捨てられた人々がどういった経緯で残ったのかを色々挙げて
国ごとの簡単な現地情勢と史実推移に合わせて日本政府の対応や
個々人がそれぞれどのような人生を辿ったか書いてて、新書サイズでこれはなかなか…
山西の日本兵問題みたいな組織の論理で高級軍人の保身のために
人身御供へ出されたような悲惨な人々や戦後の独立闘争に関わって
住民支持の無いバリ島で文字通り全滅した日本人義勇部隊の話に混じって
飛行第5師団の自動車隊伍長が敗戦で収容所をおん出てラオスへ逃れて
陸軍参謀学校第1期生の第33歩兵連隊長で伯爵陸軍大佐にまで栄達したとか
かなり珍しい例も挙げられてたり

13120 B
台湾の李登輝元総統も日本軍人でした。お兄さんは残念なことに戦死されて靖国神社に祭られています。
最も多かった鮮人だったか。靖国にも祭られているモノも多い

33393 B
本文無し