… |
9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、信印の下賜を求めた[48]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[49][50]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[50]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定[51][52]。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り[51]、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。 |
… |
なんで勝ってるのに降伏しようとしたんだ? |
… |
wikiは誰でも改ざんできるからじゃね? |
… |
権力者が変わる度に燃やしちゃうから歴史資料なんか無いでしょうに 韓国の歴史時空は歪み切って整合性なんか取れない |
… |
対馬侵略に失敗し後世に恥ずべき歴史を残した朝鮮王は今、 お札の顔になっている。 |