韓国経済@ふたば保管庫 [戻る]

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【今日は】応永の外寇【何の日】

17日21:17頃消えます 応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている[2]。

朝鮮軍は227隻の船に1万7285人の兵士を率いて対馬に上陸したが、宗貞茂の抵抗により、朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死し、朝鮮軍は動揺して逃走したが船に火を掛けられて大敗を喫した[1][3][4]。朝鮮側もすぐに迎撃のための再遠征を議論するほど戦果は不充分であった[5]が結局実現しなかった。この外征以降、宗貞盛に日朝貿易の管理統制権が与えられ、対馬と朝鮮の通交関係の回復がなされた。その後、宗貞盛は李氏朝鮮と嘉吉条約を結び、朝鮮への通交権は宗氏にほぼ独占されるようになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87

9月、朝鮮に『都伊端都老』という対馬の使者が来て降伏を請い、信印の下賜を求めた[48]。そして翌年には『時応界都(辛戒道)』という対馬の使臣も朝鮮に来て、宗貞盛が朝鮮への帰属を願っていると伝えた。これを受け朝鮮では、貞盛に「宗都々熊丸」(都々熊丸は貞盛の幼名)という印を与えるとともに、対馬を慶尚道へと編入することを決めた[49][50]。しかし、回礼使として日本へ派遣された宋希璟が対馬に立ち寄った折、当時の対馬最大の豪族早田左衛門大郎から編入について抗議を受ける[50]。さらに応永28年、対馬から朝鮮へと派遣された使者仇里安が朝鮮への帰属を否定[51][52]。属州化は有耶無耶となった。これ以降も朝鮮では、対馬が慶尚道に属する朝鮮の島であるという認識が残り[51]、現在でもそのような見方は「対馬島の日」条例などに代表されるように、一部には残っている。

なんで勝ってるのに降伏しようとしたんだ?

wikiは誰でも改ざんできるからじゃね?

権力者が変わる度に燃やしちゃうから歴史資料なんか無いでしょうに
韓国の歴史時空は歪み切って整合性なんか取れない

対馬侵略に失敗し後世に恥ずべき歴史を残した朝鮮王は今、

お札の顔になっている。