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1月08日頃消えます 幕末あたりの武器について
蘊蓄沢山ください。

アメリカ内戦(南北戦争)で余った古い武器が大量に流れ込んだ

長州「え?龍馬のつてでグラバーから買ったミニエー銃って実は旧式?」

NHKの歴史秘話でやってたな
鳥羽伏見の戦いでは幕府軍が後装式の新型銃を装備していて
新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ

>新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ
自分もそれ見たんだけど、シャスポー銃とミニエー銃の不発割合とかがわからないからなんともと思った
実際急襲されたとして、弾丸入れてなかったとしても、優勢でかつ4倍の射撃速度なのに反撃できない状況ってのがよくわからない

いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね

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>いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね
素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね

>いくらいい銃でも兵隊が急襲され浮足だって武器捨てて逃げたら一緒だからね
赤備えで威張ってた彦根が寝返ったり
淀が様子見でグダグダだったりそんなん見たらなあ

>新政府軍の方が旧式銃で、射撃速度に4倍の差があったそうだ

装備の優劣や兵力差だけで決まるなら日清戦争は負けてたね

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>素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね
もう終了しちゃったけど米沢市上杉博物館で戊辰戦争の特別展をやっていてそれによると銃と一緒に戦術も伝来戦列歩兵が役に立たない事も伝わっていてなるべく目立たない黒い服装の着用や散兵として戦っていた事が展示されてた他には溶けた金属を挟んで弾を作成する道具にも刻印がされているのでちゃんと道具も海外から買っていたこと砲の設計図も入手していたが、とうてい当時の日本の技術では製作不能だったこととかか

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こいつが量産された暁には・・・


>素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね
あと士気もね
西南戦争では、徴兵で集めた平民兵士がクレイジー薩摩を前に逃げ散って戦線崩壊する事があった

なので、軍から排除したはずの士族を集めて「警視庁の」抜刀隊として投入して
ようやく薩軍を押し返す事が出来た

その対策として明治政府が行なったのが「天皇は現人神で、軍はその神兵である」という洗脳
その成果が結実したのが二〇三高地よ

フランスやイギリスが
まともな銃を売ったんだろうか?
少々不良品でめ まあいいや的に売り付けた気がしてる。
ソースは無い。

昭和20年いよいよ本土決戦となっとき編成された国民義勇戦闘隊だと
村田銃も行き渡らない幕末の洋式銃もごろごろ出てきて装備していたとか
これに弓矢・刀剣も加わって戊辰戦争から70年逆に戊辰戦争レベルまで退化した兵器で米軍に挑む事になっていたかも

>まともな銃を売ったんだろうか?
ヨーロッパ情勢の軍縮で不要になったとか旧式ではあった気がする

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ブラタモリでやってたけど薩摩は砲身をムクの金属塊から水車を利用して削りだしで作ってたそうだ


>ヨーロッパ情勢の軍縮で不要になったとか旧式ではあった気がする
南北戦争終結で大量に余りまくった火器を日本に売りつけた
因みに米国(北軍)が火器を調達したのは、当時日本と海外の金の差額で大儲けした金と言われてる
明治政府が後でそれに気づいて真っ青になったとか

水車での削り出しは欧州もそうだったような
後適当に見様見真似でライフリング切っちゃって、
欧州から来た教官からめっちゃ怒られたとか

>因みに米国(北軍)が火器を調達したのは、当時日本と海外の金の差額で大儲けした金と言われてる
そっちは有名だからね
国内での銀と金の兌換レートが海外より良かったから(でないと貨幣を十分に流通できなかった)から日本相手に銀を売って金に換えまくった
日本側も気づいていて交渉したけど撤廃させる力がなくて泣き寝入り

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>明治政府が後でそれに気づいて真っ青になったとか
幕末の通貨問題流出の具体的な量と影響上記で「大量」とのみ表記されている日本からの金貨の流出量について、具体的な量は概算レベルでも一致した見解が提示されていない。武田晴人が2009年にまとめた資料によれば、開港からの半年で流出した額は10万両とも50万両ともいわれ幅が広い[10]。ただし、この流出に関連した国内経済へのインパクトは1861年には沈静化したと見られることから、「金貨流出の影響は一時的なものにとどまった」とした[10]。武田資料を参照した鎮目雅人は2016年発表のワーキングペーパー上において、過去の研究では大量流出という捉え方が主流であったことを前提としつつも「最近の研究では流出規模はそれほど大きくなかったとの見方が有力」とした[11]。どうなんだろうね

金の流出って明治初期も起こってたと思うけど
渋沢栄一の第一銀行でも似たような話を聞いたことある

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幕末あたりといえば小藩に多く導入された改造管打式銃を忘れちゃいかんと思うのですよ
西洋銃に対抗する形で生まれた何とか存続したい伝統の鉄砲術と仕事を失いたくない鉄砲鍛冶と予算の無い小藩の妥協の産物マッチロックやフリントロックと比して不発率がかなり下がる雷管は物凄い発明なんだけど一足とびに導入しちゃった本邦ではその凄さが広まって無いと思う

西洋式軍学の流入はこれまで剣術的な流派というか一族単位の商売であった伝統の鉄砲術流派にとってまさに存続の危機だった
藩のお墨付きで出世のためにもと学ばれていた各流派はこの脅威に対して西洋式軍学に乗り換えたり部分的に導入したりと生き残りをかけた近代化に励むことになる

しかし最終的には国軍の成立に伴ってバラバラな流派の寄せ集めではは良くないよねってなって歴史の掃溜め送りとなった

メキシコ金貨に比べて純度が高かった。
改鋳して純度を下げて対応したはず

>素人が思ってるより索敵や陣形が大事ってことなんかね
何にでも言えることだけど事前の段取りこそが大切
段取りさえしっかりしてれば清仏戦争のベトナム方面のように団連(半正規兵な自警団)主力で武装は旧式銃と刀槍でもフランス軍を撃退できたりしているわけでして

同時代の中国における火器の進歩や技術導入もなかなか面白い
地方政府による雷管の国産化にも成功してたりするし技術水準的には侮れないのよね

幕末に海外に流出した金の量は、同時期にアメリカがロシアから
アラスカを買った額とほぼ同じ。
って話を聞いたけど、仮に50万両だとしたら、
天保小判が11.2グラムで、金56.8%に銀43.2%、50万両だと金だけで3.18トン。
今の価値だとグラム4800円くらいだから、153億円ほど。
アメリカがアラスカを買った額は720万ドル。
wikiによると今の価値で1億2300万ドルだそうだから、1ドル110円として
135億円ほど。
荒い計算だけど、なるほど大体一緒だな。

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幕末に作られた日本刀
当世具足が出た頃から反りは緩くなり 切っ先は長くなる江戸時代 刀作りは一時衰退するが幕末需要が増えて名工も輩出するようになる

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慶応3年(1867年)1月に徳川幕府が幕府陸軍訓練指導の為、フランスから招いたシャルル・
シャノワーヌ=サンという参謀大尉が、来日して間もない4月、徳川慶喜ショーグンに幕軍の改革についての専門的意見を建白書として提出しているんですが、曰く・大体程度の訓練可能な演習場を獲得すること・兵士は農村出身の強壮なものを選ぶこと・小銃を整理整備し火薬を統一すること・火砲の試射を行うこと・射場を設けること・牽引用の馬匹を備えること…とのことで、また幕軍士官について

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「日本の陸軍士官中教導を得たるもの更に一人もなし。是皆外国の火器を見知るというの
みなり。其内余り年齢多きもの亦少なからず」…として、少年時代から教育を行う士官学校(兵学校)の設立を勧告しているほか、幕府が諸外国から購入した小銃は累計で4万2775挺あるものの、「多分は打ち捨てありて清潔ならざれば、差当り戦に用ゆるを得ず」…という状態で、大小各種千挺余りの砲(内約3百挺が野戦砲)も、すみやかに実射を行って点検すべきである、としているそうです要は当時の幕軍は十分な演習施設がなく、訓練は足りず、兵卒は壮健ならず、士官は質が低く、装備は雑多でしかも整備不良であった…という事みたいなんですが、これが戊辰戦争の8ヶ月前の話なんですよねえ

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因みにコレは余談ですが、「日本軍事技術史」という本に慶応元年から3年までの日本の
小銃輸入状況の概況が載っているんですが、この3年間に長崎・横浜・神戸/大阪港から輸入された小銃の数は合計21万5170挺、ドル換算で274万ドルに達しているそうですこれは記録に残されたモノだけであって、実際の輸入数は密輸品等を考慮すれば更に多数であったろう…との事なんですが、この三年間の内訳を見ると、慶応元年が2万5850挺(16万ドル)、2年が2万1620挺(27万ドル)、3年が16万7700挺(231万ドル)となっております単純に合計金額を輸入数で割った1挺当たりの価格は慶応元年約6.2ドル、2年約12.5ドル、3年が13.8ドル、無論各年の小銃の種類の詳細が分からないので単純に比較はできないんですが、僅かの間に輸入量も単価も大幅に跳ね上がっているのは、内乱に突入しつつあった日本の国内状況も影響していたんでしょかねえ、やっぱし

支払った額は莫大だが
アメリカの南北戦争では68万人の死者が出たが
戊辰戦争だと両軍合わせて死者は1万人程度と新式の銃が流入してる割りに極小

民衆不参加の支配者階級間の交替だから当たり前とも言えるが
日本は武器だけじゃなく西洋の歴史、動きも取り入れ
(まあ、直前の南北戦争は大いに参考になったろう)
江戸の無血開城なども検討した結果であって
ただパクルだけじゃない他国の歴史からも学べる賢い日本人像が見えるね
ついでに民衆の不満や被害予想、士族の不満までくみ取る忖度の心も

これが悪い形になると太平洋戦争となるんだが

フランス式軍制の導入とかも結局新政府も引き継いだしな

>幕末需要が増えて名工も輩出するようになる
土方歳三が使ってた和泉守兼定がそれだね
情勢不穏を受けて会津藩が刀の量産を始めて、そのうちの一振りが土方のものになった

会津藩降伏→廃刀令で刀鍛冶は廃業するも、明治36年の日英同盟の際、
イギリスに贈る刀を打つよう依頼を受けている
完成前に急逝されて未完に終わってるけど、完成できたら、
どういう刀が出来ていたのか気になるね

>廃刀令で刀鍛冶は廃業するも
サーベル拵えの日本刀とか作ってるのに廃業か・・・
もったいないね

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小銃の大量輸入は御一新の後も続きまして、前述「日本軍事技術史」によれば慶応元年
から明治2年までの5年間のトータルでは、47万9781挺、651万845ドルとなっておりましたりまた、徳川幕府が当時保有する購入した外国製軍艦8隻、洋式船舶36隻の価格合計が333万6000ドルだそうですので、合計するとそれだけで982万ドル以上…アラスカが余裕で買えちゃいますですなあw因みに、フランスは軍事顧問団の派遣と共に、4斤野・山砲各12門と後装式のシャスポー銃2千挺を幕府に寄贈しているんですが、当時フランス語通訳として教育を受け、後に函館戦争にも参加した田島応親陸軍砲兵大佐さんの回想記が残されておりまして、曰く

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「当時の砲はどういう砲であったかというと、今日から見ますと、実にこういうものをフ
ランスでもあの頃は持っておったかというて、実におかしいようなもので、遊就館に参りますといくらもころがっております」「銅砲で口込めでありまして、その射程距離というものがどれほど届くかというと、今日の小銃にも劣っておる。山砲が3千メートル、野砲が4千5百メートル、これを極点としておった。今日の小銃弾の4千メートルにも達するのにくらべますと、まことにおかしいものです」「当時、(幕府)歩兵隊の持っておりましたもので、いちばん多くあったのはイギリスの例のエンピール銃。たいへん筒の太い不完全なものでありましたけれど、これはやはり砲とおなじく、その当時最鋭な利器であったのであります」

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「フランスの小銃をわざわざ取り寄せる必要もなかった。それで間に合わしておった。も
っとも幕府の時分にありました模範、その当時伝習隊と称えましたものを除くのほかは、オランダ・ゲベールと称えます円弾の口込めの鉄砲を持っておりました。伝習隊のほうは口込めの筋入りの銃(旋条銃)で、射程の遠いエンピール銃を持っておった」「また騎兵のほうにしましても馬具などというものはきわめて不備で、一部分は和鞍、すなわち例の日本の木骨鞍を用い、その他洋式の革でこしらえた鞍でも、様式は一定しておらなくていろいろの形のものがまじっておった。ようやく伝習する隊だけが揃った洋式の鞍に乗っておることができたぐらいであります」…との事なんですが、幕府の本格洋式軍隊の創成期の様子がよく窺える内容ではあるんじゃないでしょか…w

>No.485564画
本題と関係ないけど西欧人がイメージした日本の版画かなあ?
なんとなく中国風になるんですよね、特に左側の建物(笑)

幕府伝習隊の漫画はかわぐちかいじが書いてたな
確かシャスポー銃で敵兵を倒して
「このシャスポー銃は後装式で〜」
・・・とか自慢するシーンとかあったような

>もったいないね
会津藩のお抱えだったので…
会津戦争後は会津の外に逃がされていたし
とてもじゃないけど刀鍛冶を続けられなかったんでしょ

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会津…銃…
…うむっ!!

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>幕府伝習隊の漫画
手塚治虫大せンせいの「陽だまりの樹」でも、主人公の一人が幕府歩兵隊の指揮官になってましたですなあ因みにフランス人教官の招請前に、まず徳川幕府が近代陸軍伝習を申し入れたのは当時横浜に駐屯していたエゲレス軍だったんだそうで、元治元年(1864年)から慶応2年にかけて、その指導の下に「英式歩兵1大隊・砲兵1小隊・楽隊」が編成されているんですとか結局英側から、期待したほどの援助が得られないと分かると英式伝習の試みは中止され、新たな指導先をフランスに求めることになったそうなんですが、その後(ドイツが新たなお手本になったりもしますが)も「日本陸軍」にフランス式教育の遺風が諸処に残った事を思うと、仮にこの時最初の英式導入が上手く行っていたなら、日本の陸海軍が共に「英国流」で育って…なんて事になったかもしれないですねえ

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因みに短い交流でしたが、慶応2年2月5日には神奈川奉行所支配の伝習隊と横浜駐屯のエ
ゲレス軍による合同演習なんかも行われているそうですその模様は"Illustrated London News”のような絵入り新聞によって彼の国にも伝えられ、逆に今の私らも当時の幕府陸軍の様子をそこから窺うことができるわけなんですが、やっぱり当時でも向こうの国の軍オタさん達がその記事と挿絵を見ながら「おい、小銃はエンフィールドだぜ?」「どうせ型落ちだろw」「このでっかいサーベルカッコイイな…どっかのショップで買えない?」…なんて、趣味の談議に耽っていたんでしょか…w

カッコは近代的になっても二本差しなのねん
銃剣も支給されてただろうに

>銃剣も支給されてただろうに
銃剣も突き刺すだけのスパイクだったかもね
そうなると別に刀持っても納得できる

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>二本差し
幕軍側ではないですが、元長州の奇兵隊隊士だった三浦梧楼陸軍中将の回想記に、鳥羽伏見の戦いで前線へ出陣した際の挿話が有りまして、曰く「兵隊には『銃剣はあの藪の中へ棄てておけ(略)』と告げてそのまま出陣した。当時、銃剣は兵隊どもの非常に厄介視したものであった。『両刀があるのに、こんな切れもせぬものを付けて何になるものか。厄介で厄介で仕様がない』などとすこぶる苦情を唱えたものである。我輩が今その銃剣を棄てさせたものであるから、兵隊どもは皆大満足である。この些々たることがなかなか士気の振興を助けるものであった」…との事

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三浦さんはその後、進撃中に幕府軍の一隊との遭遇戦になるんですが
「ちらりと何やら土手下の松の樹陰に見えると斉しく、ドッと喚いてバタバタと堤上に踊り上がった敵の槍隊。『さあ来い』とばかりに槍を突き付けた。この方は弾丸を込めぬ空砲、直ぐには射たれぬ。我輩は刀を抜いて『座れ座れ』と叱咤するうち、『さあ来い』と叫んで、刀を上段に構えたものがある。誰かと見れば隊長の藤村栄次郎(略)『危ない、下れ』と背後から引き戻し、なおも坐れ坐れと味方を制した」「敵は槍を構えたまま、味方の鉄砲に恐れて少しも動かぬ。淀の橋のかなたに敵の台場はあれども、この味方の槍隊を撃たんことを恐れて一丸をも送り得ざる始末で、実に拙劣極まる戦略であった」「味方はこの間に早や弾丸を込めた。一斉に打ち出す銃丸、バラバラと降り掛って、敵の槍隊七、八十人、瞬く間にバタバタと皆倒れた」

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…ところで、いざ突撃!と部下を率いて突進せんとした時足に敵弾を受け負傷、後送を
余儀なくされたそうです日本刀が未だ大部のヘイタイさんたちにとっては心の支えでもあった一方、既に戦場の勝敗を実際に決するのは火砲・小銃の射撃戦になりつつあって、それに対処する指揮官の対応が重要だった当時の戦場の様相が窺える話ではあるんじゃないでしょか因みに伏見に後送される三浦さんの所に、部下の山本常次郎さんという方が風呂敷包みを持ってやって来たそうでして、「『これをお持ちくださるよう』と言いつつ、膝の上へ置いて立ち去った。何かと思って開き見れば、思いがけなき藤村栄次郎の首であった」

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「藤村は奮闘して討死にしたが、勝敗未決の折柄、その首の敵手に取られんことを恐れて、
かくは掻き切ったものである」「この山本という男は(略)肥後の決死隊と悪戦苦闘して、山田という隊長も(略)戦死した時(略)首を掻き切った男である。一代に二度も隊長の首を掻き切るとは、不思議の因縁である」…なんて後日談があったそうです敵手に落ちないよう、戦死した上司の首を先に切っておかなくちゃ!なんて時には、ロクに切れぬ銃剣じゃあ頼りにならなかったでしょうし、こんな時は、やっぱり持っててよかった、日本刀!って事になったんでしょかね(棒

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>幕府伝習隊の漫画
滝沢聖峰『ガンズ&ブレイズ』主人公が元火消しの江戸っ子で確か伝習隊に所属物語自体は五稜郭の戦い以後から始まり、元旗本と北海道を転々としながら新政府軍の追っ手から逃れるという話だが

>会津…銃…
綾瀬はるかさんなの

>日本刀が未だ大部のヘイタイさんたちにとっては心の支えでもあった一方
戦争でポン刀が決戦兵器だったことって
かつて一度でもあったんかな
正に「心の支え」でしかなかったような
多数vs.多数では、槍とか弓のほうがよっぽど意味ありそうだ

>多数vs.多数では、槍とか弓のほうがよっぽど意味ありそうだ


多数vs.多数ではそうだが、それで大勢が決した後の追撃・首狩りでは
必須だったから、武士の命であることには確かかと(首無いと報奨とれないし)

ただ単に相手を死体にするだけで良いのならそりゃ槍とか鉄砲とかの遠距離兵器のが良い

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元長州藩士だった林錬作陸軍少将の「兵器沿革略(前編)」には、幕末に使用された「ゲベ
ール銃」の銃剣について「実際之を用ヰることなし 何となれば各自日本刀を帯るが故に 接戦に方ては銃を投じ抜刀突貫以て我利刀の威力を示さんことを欲すればなり」…なんて書かれていたりします射撃戦の後の白兵戦では、銃を投げ捨ててカタナで戦う!というのは、当時ではごく常識的な思考だった、というわけなんでしょか…w

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同著では続けて、幕軍がフランスから教育団を招いた頃から「ミニエー銃」の評判が高ま
り、諸藩がこぞって導入に努めるようになっていて、「明治元年の役」では携帯する兵隊さんの姿が多く見られた…なんて記されているんですが、その「ミニエー銃」の派生の一つである「エンピール(エンフィールド)銃」について、「明治3年徴兵令を定められ 兵制一定するや歩兵銃は「エンピール」に定められたり(略)1853年式銃にして「ヤクガン」形の銃劔を具し(略)以来日本刀を廢し歩兵は(略)銃劔を帯び銃を携う 而して銃劔接闘の演習を試み 用法を了解し敢て日本刀に意を留めさるに到るを見たり」…と述べていたりします

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銃器の発展に従って、刀の実戦における価値が下がっていくのは当然ではあるんですが、
ある意味では時代が進んで、日頃刀の用法に習熟していた武士階級から、徴兵で集められて訓練を受ける一般市民に軍の戦力の中心が移って行くのに合わせて、「日本刀に頼らない」でも戦える軍隊の育成が図られた…という事でもあるんでしょかね、コレ

日本刀に頼らない軍隊を目指した結果が
白兵戦に弱い日露戦争の日本軍ではなぁ

弱かったのかは知らないが白兵戦では体格差がモノを言うのは間違いなし