韓国経済@ふたば保管庫 [戻る]

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【今日は】朝鮮戦争【何の日】

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争[2][3][4][5]。1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した[6][7]。

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。1953年7月27日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

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終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、南北朝鮮の両国間、及び北朝鮮とアメリカ合衆国との間に平和条約は締結されておらず、緊張状態は解消されていない。休戦以来、北朝鮮は幾度となく大韓民国への領空、領海侵犯のみならず砲撃をも行い、韓国や日本などの国民の拉致や恫喝を繰り返している。
1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。
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さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。
連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの退去、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明[32]を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動された。
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6月27日に国連安保理は北朝鮮弾劾・武力制裁決議に基づき韓国を防衛するため、必要な援助を韓国に与えるよう加盟国に勧告し、7月7日にはアメリカ軍25万人を中心として、日本占領のために西日本に駐留していたイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦占領軍を含むイギリス連邦諸国、さらにタイ王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を結成した。なおこの国連軍に常任理事国のソ連と中華民国は含まれていない(詳しい参戦国は後述)。
朝鮮人民軍に射殺されたアメリカ兵捕虜(303高地の虐殺)なお、朝鮮戦争において国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可している。しかし、国連憲章第7章に規定された手順とは異なる派兵のため、厳密には「国連軍」ではなく、「多国籍軍」の一つとなっていた。準備不足で人員、装備に劣る国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田の戦いで大敗を喫すると、国連軍は最後の砦、洛東江戦線にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や共産党関係者の政治犯などを20万人以上殺害したと言われている(保導連盟事件)[43]。
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また、北朝鮮軍と左翼勢力は、忠清北道や全羅北道金堤で大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などとして虐殺した[44]。また、北朝鮮軍によりアメリカ兵捕虜が虐殺される「303高地の虐殺」が起きた[45]。
この頃北朝鮮軍は、不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い人民義勇軍を組織化し[44](離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。釜山陥落も危惧される情勢となり、韓国政府は日本の山口県に6万人規模の人員を収用できる亡命政府を建設しようとし、日本側に準備要請を行っている[46]。金日成は「解放記念日」の8月15日までに国連軍を朝鮮半島から放逐し統一するつもりであったが、国連軍は「韓国にダンケルクはない」と釜山橋頭堡の戦いで撤退を拒否して徹底抗戦をして、釜山の周辺においてようやく北朝鮮軍の進撃を止めた。
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マッカーサーは新たに第10軍を編成し、数度に渡る牽制の後の9月15日、アメリカ第1海兵師団および第7歩兵師団、さらに少数の韓国人道案内からなる約7万人をソウル近郊の仁川に上陸させる仁川上陸作戦(クロマイト作戦)に成功した。
また、仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38度線から300km以上離れた釜山周辺での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪還し、9月29日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。ソウル北西の高陽では韓国警察によって親北朝鮮とみなされた市民が虐殺される高陽衿井窟民間人虐殺(en)が起きた[47][48]。
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この時敗走した北朝鮮兵は中央山地で再編成され、南部軍と称した。南部軍は中央山地沿いに潜入した北朝鮮政治指導部と、北朝鮮軍敗残兵、麗水・順天事件の韓国軍脱走兵、南朝鮮での共産主義シンパの活動家などから構成されていた。指揮官の李鉉相は済州島「4・3蜂起」の指導者であった。南部軍のゲリラ活動に国連軍は悩まされ、数度の大規模な鎮圧作戦を余儀なくされた。リーダーの李鉉相が戦死してゲリラ活動がほぼ収束したのは朝鮮戦争停戦後の1953年12月であった。
1950年10月1日、韓国軍は開戦以前から「北進統一」を掲げ、「祖国統一の好機」と踏んでいた。李承晩大統領は丁一権参謀総長を呼び「38度線には何か標でもあるのか?」と尋ねると、李の意図を理解した丁は「38度線は地図に引かれた単なる線です」と答えた。李は我が意を得たとばかりに丁に『ただちに軍を率いて北進すべし』という大統領命令書を渡した。この命令については事前にマッカーサーへの相談はなされていなかった[49]。
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しかし、アメリカでは既に仁川の成功で発言力が増していたマッカーサーによる要求や、北朝鮮軍が38度線以北に逃げ込んで戦力を立て直し再度の侵略を図る懸念があるとの統合参謀本部の勧告もあり、トルーマンはマッカーサーに38度線を突破する事を承認し9月27日にマッカーサーに伝えていた。しかし条件が付されており『ソ連や中国の大部隊が北朝鮮に入っていない場合』『ソ連と中国が参戦する意図の発表がない場合』『朝鮮における我々の作戦が反撃される恐れのない場合』に限るとされた。
10月1日、韓国軍の進撃に対し中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は中国人民共和国建国一周年のこの日に「中国人民は外国の侵略を容認するつもりはなく、帝国主義者どもがほしいままに隣接の領土に侵入した場合、これを放置するつもりはない。」とする明白な警告の声明を発表したが、ワシントンはこの声明を単なる脅しととって無視した[54]。
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しかし毛沢東はかなり早い時期、それもまだ北朝鮮軍が有利に戦争を進めていた7月の段階で中国の戦争介入は不可避と考えており、中朝国境に中国の最精鋭部隊であった第4野戦軍から3個兵団を抽出し、東北辺国防軍を創設し準備を進めていた。
金日成は人民軍が崩壊の危機に瀕するとまずソ連のスターリンへ戦争への本格介入を要請したが、9月21日にソ連が直接支援は出せないので、中国に援助を要請する様に提案があった。諦められない金日成はソ連大使テレンティ・シトゥイコフに再度直接ソ連軍の部隊派遣を要請すると共に、スターリンにも書簡を送っている。しかし返事は変わらず、10月1日にスターリン自身が金日成に「中国を説得して介入を求めるのが一番いいだろう」と答えてきた[70]。当時スターリンは、「中華人民共和国を参戦させる事で、米中が朝鮮半島に足止めされる状況を作る」という戦略を立てていた[71]。
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1953年に入ると、アメリカでは1月にアイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。1953年7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時の終結をし、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。なお「北進統一」に固執した李承晩大統領はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)。
停戦協定は結ばれたものの、板門店がソウルと開城市の中間であったことから、38度線以南の大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であったとされる。

韓国人「そんなものはないニダ」

全世界に多大な迷惑をかけ続けている戦争モドキ

当の南チョン国モドキは「日本から独立を勝ち取った戦争」にしている

韓国戦争なら知ってるぞ
満州から攻めてきた奸悪日帝軍を、韓米中の世界三大戦勝宗主が迎え撃って完膚無きまでに叩きのめした偉大な戦いのことだよ!
■ 韓国軍ヘタレ伝説
1950年6月25日、北朝鮮軍約10万人が38度線を突破して進撃してきた。

北朝鮮軍の奇襲に韓国軍は総崩れとなり、ソウル親衛隊と参謀本部が
米国軍事顧問団をソウルに置き去りにして真っ先に敵前逃亡したため、
わずか3日でソウルが陥落した。

さらに北朝鮮軍に追い詰められ敗走した韓国軍は、保導連盟員や政治犯が
北朝鮮軍に呼応して反乱することを恐れ、二十万人あまりの自国民を虐殺した。

ほぼ同時に朝鮮半島の戦線を放棄し
「九州に臨時政府を作るから助けてくれ」と在日米軍に泣きついたが、
あまりのヘタレぶりに米軍がマジギレし、韓国軍の指揮系統を掌握して反攻、
そして38度線まで押し戻して休戦にもちこんだ。

だから、韓国軍の戦時統帥権(指揮権)は今も在韓米軍のもの。

第2次世界大戦の戦後処理のミス
自称も含めて戦勝国はさっさと片を付けて貰いたいものです

書き込みをした人によって削除されました

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>そして38度線まで押し戻して休戦にもちこんだ。

このとき日本の海上保安官も参加して海戦でアメリカ側に協力した。これは公式記録に残っているが、実は非公式に、アメリカ軍に参加した日本人がいる。旧大日本帝国軍の航空関係者で、アメリカ軍から依頼されアメリカ人のふりをして朝鮮半島に渡り、中国軍(義勇軍)の戦闘機との戦いに協力した。そのおかげで、アメリカ空軍は初めて相手をする中国戦闘機と互角に戦えた。
さらにアメリカ陸軍の主流火器ブローニングM2重機関銃は朝鮮半島の冬の戦闘時に寒さのせいでジャミングを起こす。このタイミングで中国兵数十人が機関銃を構えるアメリカ兵に襲い掛かる。中国兵十人が死んでもそれでアメリカ兵が一人死ねば中国側の有利。アメリカ軍はこの中国の人海戦術の前に北朝鮮殲滅をあきらめて停戦を選んだ。