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【今日は】応永の外寇【何の日】

応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による倭寇討伐を名目とした対馬攻撃を指す。糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征(기해동정)と言われる。当時足利義持が明使を追い返すなど日明関係が悪化していたこともあり、京都では当初これを中国からの侵攻と誤解したために、伏見宮貞成親王の『看聞日記』には「大唐蜂起」と記されている[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87

対馬側には同時代資料がないため、ここでの記載は主として朝鮮王朝実録に基づく。

朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが[11]、応永26年5月7日(1419年6月9日)、数千名の倭寇が朝鮮の庇仁県を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した[12]。この倭寇は5月12日(6月14日)、朝鮮の海州へも侵犯し[13]、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した[14]。朝鮮の上王である太宗は、これが対馬からの倭寇という事を知り[15]、5月14日(6月16日)、対馬遠征を決定。世宗に出征を命じた。

朝鮮側は5月23日(6月25日)に九州探題使節に対馬攻撃の予定を伝え[16]、5月29日(7月1日)には宗貞盛(宗都都熊丸)に対してもその旨を伝達した[17]。一方、朝鮮に来た倭寇集団は、以後に朝鮮を脱して遼東半島へ入ったが、そこで明軍に大敗する(望海堝の戦い、中国名:望海堝大捷)。

対馬に侵攻する朝鮮軍は三軍(右軍・中軍・左軍)で編成され李従茂を司令官とし、軍船227隻、兵員17285人の規模であり、65日分の食糧を携行していた[18]。

朝鮮軍の目的について、太宗は朝鮮軍が対馬へ行く前に「ただ賊のみを討て。宗貞盛には手を出さず、九州は安堵せよ。」と命じたと『老松堂日本行録』に記述があるが、実際には[要出典]交通の要衝を遮断し、占領を目的としていた[19]。

6月19日(7月20日)、朝鮮軍は巨済島を出航した。[20]
6月20日(7月21日)昼頃、対馬の海岸(尾崎浦)に到着した。島の賊たちは、先行する朝鮮軍10隻程度が現れると、仲間が帰ってきたと歓迎の準備をしていたが、大軍が続いて迫ると皆驚き逃げ出した[21]。その中50人ほどが朝鮮軍の上陸に抵抗するが、敗れ険阻な場所へ走り込む[22][23]。上陸した朝鮮軍はまず、出兵の理由を記した文書を使者に持たせ、対馬の宗貞盛に送った。だが答えがないと[24]、朝鮮軍は道を分けて島を捜索し、船129隻を奪い、家1939戸を燃やし、この前後に114人を斬首、21人を捕虜とした[25]。また同日、倭冦に捕らわれていた明国人男女131人を救出する[26]。以後、朝鮮軍は船越に進軍し、柵を設置して島の交通を遮断し、長く留まる意を示す[27]。

6月29日(7月30日)、李従茂は部下を送り、島を再度捜索し、加えて68戸と15隻を燃やし、9人を斬り、朝鮮人8人と明国人男女15人を救出する[28]。そして仁位郡まで至り、再び道を分け上陸した。しかしその頃、朴実が率いる朝鮮左軍が、糠岳で対馬側の伏兵に会い敗北。朴弘信、朴茂陽、金該、金熹ら4人の将校[要出典]が戦死し、百数十人が戦死及び崖に追い詰められて墜落死した。だが朝鮮右軍が助けに入り、対馬側は退いた[29]。

6月29日、対馬遠征の報告に戻っていた従事官、趙義昫が帰還する[30]。この時、崔歧という太宗の使いが同行しており、遠征軍に二つの宣旨(手紙)を届け、全てを仔細に李従茂と論じたとおりせよと命令した[31]。
「一つ、7月は暴風が多いため、長期的に留まる事なかれ」。[32]「二つ、卿(李従茂)に都都熊瓦という日本人に余の意を論じる許可を与える。」[33]
さらに以下のようにつけ加えた。「都都熊瓦とは宗貞盛のことである。師団が敗北した文書はまだ届いていない。故に(王は)この旨を降ったのである。」[要出典][34]。

また、占領を恐れた宗貞盛から次のような文書が届く。「朝鮮軍撤退と修好を願い、且つ曰く"7月の間、恒に風変あり。大軍よろしく久しく留まるべからずと"。」[35]修好を願いつつも、台風が来るから早く帰れという書は、朝鮮軍にとって渡りに船であった[要出典]。

糠岳での戦闘に関して朝鮮では「朴実が負ける時、護衛し共にいた11人の中国人が、我が軍の敗れる状況を見てしまったので、彼らを中国に返還できない」という左議政(高位官吏)の主張があった[38]。その為、朝鮮の通訳が中国人に所見を聞くと「今回の戦いで死者が、倭人20余名、朝鮮人100余名」と朝鮮側の被害を多く言った[39]。これについて、崔雲等が「中国は北方民族との戦いで、遠征軍の兵士たちの過半数を失った例があります。100人の死、何が恥になるでしょうか?」と主張し、太宗がこれに賛同し、中国人たちを明へ帰すこととなった[40]。朴実は軽率だった罪により投獄され李従茂は左軍関連で非難を受けたが、東征(対馬遠征)にとって敗北は少く勝利は多かったとして[41]、後に朴実は免罪、李従茂は昇進する事になった。
また対馬については、「我が族類にあらず」と前言を翻し[要出典]、さらに朝鮮の京中・慶尚及び全羅道にいた対馬人を僻地に移転させることを決定[42]した。